突然の暗転。そして、浮遊感。
「おっと! なんだなんだ!?」
天地がどこかもわからない状況で、
ビュオウッ。
宙に投げ出された早梅のからだを、吹き抜けた風がさらう。
気づけば、早梅は力強い腕に抱かれていた。
「ご無事ですね、
「
黒皇はうなずくと、勇健な濡れ羽色の両翼を羽ばたかせ、巻き起こした風の流れに乗った。
そっと黒皇におろされた直後に、地を踏みしめる感触。
頭上に光を感じた早梅がふり仰げば、飲み込まれるような深淵の夜空に、わずかに欠けた月がぽつねんと浮かんでいた。
あらためて視線を戻せば、見渡す限りに楼閣がそびえる。
「外だ。しかもここ……」
「見覚えのある建物だな。本殿、ですね」
早梅たちのすぐそばで声を上げたのは、怪訝な様子を隠しもしない
「
「いいえ、
すこし離れた場所で着地していた一心へ早梅が問うも、一心は嘆息して、首を横に振るばかり。
「みな、無事のようだな」
「支障はありません」
「無様に頭から池に落っこちて、危うくお父さんにこっぴどく叱られるとこだったよ」
(一心さまでないなら、いったい誰が、私たちをここまで呼び寄せた?)
全員がそろって態勢を立て直すことができればよいのだが、各々があちこちに散らばった現状から、身動きが取れない。
なぜなら、目下に広がるのは一面の蓮池。
広大な水面に、小舟が百隻は浮かんでいるだろうか。そこに、早梅と黒皇、暗珠、一心、桃英、爽、九詩はそれぞれ着地していたのだ。
「ここ、本殿の蓮池に違いはないんですが」
「私たちが見て回った場所とは、ずいぶん様変わりしたもんだねぇ。びっくりしたじゃん、もー」
いつもの調子で暗珠へ返す一方で、早梅は研ぎ澄ました刃のごときまなざしで、周囲の様子を見やった。
「夜も更ける刻になりますと、たくさんの遊覧船を浮かべ、この『舞台』にご用意した『商品』をお客人方が吟味する。それが、ひと夏に一度おこなわれる、
肌を刺すほど張りつめた静寂に、男の声が響く。
蓮池の中央に、日中は見られなかった浮島がある。
離れの隠し扉を思えば、それも手の込んだからくりの一種なのかもしれない。
橙灯篭に照らされたその浮島には、早梅にも見覚えのある壮年の男がたたずんでいた。
「ようこそ、おいでくださいました。
「……やはり、そなたが黒幕だったか。
世話係であるはずの太守が、暗珠を探して駆けずり回るわけでもない。それどころかこの混乱の中、忽然と姿を消していたのだ。
わかりきっていたことだった。陳仙海こそが、獣人奴隷売買の首謀者なのだと。
「誤解にございます。わたくしはこの離宮の管理者として、場所を提供していただけのこと」
「人道に反する行為を看過していた時点で、同罪だ。言い逃れはするな!」
「いいえ。殿下といえど、わたくしを罪に問うことなどできません。皇帝陛下が、お許しになっておられることなのですから」
「……っ!」
追及する暗珠を、陳仙海は流暢に、非情に、言葉の刃で刺し貫く。
それはまだ心のどこかで父を信じようとしている暗珠を、容赦なく奈落へ突き落とす行為だ。
「本当に、何故なのでしょうね……陛下は『是』とおっしゃるのに、殿下は『否』とおっしゃるのは。滅びし一族、
ふいに早梅へ視線を寄こした陳仙海の言葉は、早家滅亡の顛末に言及するものだ。
「陳太守、あなたは、どこまで知っているのだ……!」
叫び狂う
二年前の惨状が走馬灯のごとくよみがえり、怒りからぶわりと殺気立つ早梅に、陳仙海は答えない。
「此度のことは、殿下がご自身で判断なされたこと。殿下には殿下の意思がある。
厳粛な態度で口を開いた桃英の言葉に、陳仙海はわずかだが、顔をしかめる反応を見せた。
「……例年であれば、『商品』の競売がおこなわれる時刻ですが、
ふいに一歩、二歩と歩を進め、陳仙海がその場を退く。
「お迎えすべきお客人がおらず、わたくしも手持ち無沙汰ゆえ、この陳仙海、代わりにみなさま方を、おもてなししとうございます」
陳仙海が立っていた場所、そのすぐ背後には、人影がふたつあった。
「えー、皇子サマいるけど、いいのかなー」
「いいのいいの、遊んでもらおうよ。きゃははっ!」
謎の人影は外套の帽子をまぶかにかぶっており、どちらも人相をうかがうことはできない。
(小柄で……それに、あの舌足らずな物言い……こどもか?)
詳細はわからない。が、唯一わかることがあるとすれば、直前まで早梅たちに気取られなかったそのふたり組が、只者ではないということだ。
「それじゃあみんなで、あーそーぼっ!」
「いっけぇ! やっちゃえ! きゃはははっ!」
高らかな笑い声が響き渡る。
(……来る!)
神経を研ぎ澄ませた刹那、早梅の視界に、飛び込むものがあった。
「はッ!」
「ぐがっ!」
足を振り上げた勢いもそのままに、くるりと後転する早梅。
すかさず両足に内功を込め、水面に降り立てば、翼をはためかせた黒皇が並ぶ。
「お嬢さま、ご用命を」
「後方から援助をたのめるかい、黒皇」
「かしこまりました」
「なんだかんだ、初の共同作業だね」
「照れますね」
「照れてる顔に見えないって、こいつぅ」
素早く早梅の指示をあおいだ黒皇が飛び立ち、後方へ退避する。
冗談もそこそこに早梅が視線を戻せば、早梅に蹴飛ばされ、小舟に叩きつけられた人物が、うめき声を上げているところだった。
「ぐっ……うぅ……」
つぎはぎだらけの粗末な
早梅に襲いかかってきたのは、少年だった。
「梅雪さん!」
「ぐるぁっ!」
すぐさま暗珠が駆けつけようとするも、別の影が襲いかかる。
「くそっ、この……ふざけんなっ!」
──バチィンッ!
「ひぎっ! うがががっ!」
暗珠がこぶしを繰り出したと同時に、夜闇を稲妻が駆けめぐる。
こちらは感電したように痙攣したのち、池に投げ出され、仰向けにぷかりと浮かび上がった。失神したようだ。
「う……うぅ……うぁああ……!」
早梅を襲った少年が、うめきながら、よろよろと起き上がる。ボサボサの髪からのぞく黒い瞳は、焦点が合っていない。
「オォオオッ!」
雄叫びを上げた少年が舟を足場に、跳躍する。
(高い! だが、動きのパターンは単純だ)
早梅はすぐさま瑠璃の瞳で頭上の少年を捉えると、左の中指にはめた二連の指輪を引き抜く。やがて光とともに現れるは、純白の琵琶。
「ゆくぞ
早梅は
ベン!
放たれた音波は、凍てつく衝撃波となって夜の静寂を切り裂く。
「お力添えいたします。──
黒皇の周囲に、つむじ風が巻き起こる。
黒皇は吹きすさぶつむじ風を、力強い羽ばたきによって前方へ押し出した。
それが追い風となり、勢いを増した氷の音波が、少年と衝突する。
「がッ! ぐふぅッ……!」
少年は突風にもまれながら遥か遠くへ吹き飛ばされ、蓮池の岸辺に叩きつけられた。
「この少年の脚力……常人のそれではない。だが、武功をおさめた者とするには、手足のさばき方がでたらめすぎる」
「様子もおかしいです。とても正気とは思えません」
とんっと水面を蹴った早梅は、先に岸辺へ降り立っていた黒皇の手を借り、危うげなく着地する。
そうして、投げ出された少年を注意深くのぞき込むと。
「……ン…………モン…………
「なっ……」
聞こえた。聞いてしまった。
少年が、うわ言のごとくこぼした名前を。