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第209話 水面の舞台にて【前】

 突然の暗転。そして、浮遊感。


「おっと! なんだなんだ!?」


 天地がどこかもわからない状況で、早梅はやめは袖を振り、受け身を取りながら、体勢の立て直しをはかる。


 ビュオウッ。


 宙に投げ出された早梅のからだを、吹き抜けた風がさらう。

 気づけば、早梅は力強い腕に抱かれていた。


「ご無事ですね、梅雪メイシェお嬢さま」

黒皇ヘイファン! 助かったよ!」


 黒皇はうなずくと、勇健な濡れ羽色の両翼を羽ばたかせ、巻き起こした風の流れに乗った。


 そっと黒皇におろされた直後に、地を踏みしめる感触。

 頭上に光を感じた早梅がふり仰げば、飲み込まれるような深淵の夜空に、わずかに欠けた月がぽつねんと浮かんでいた。

 あらためて視線を戻せば、見渡す限りに楼閣がそびえる。


「外だ。しかもここ……」

「見覚えのある建物だな。本殿、ですね」


 早梅たちのすぐそばで声を上げたのは、怪訝な様子を隠しもしない暗珠アンジュ


一心イーシンさま、何かされました?」

「いいえ、に関しては、僕は何も。何かしら嫌な予感がしたので、お祖父さまたちを安全な場所へ飛ばしはしましたが」


 すこし離れた場所で着地していた一心へ早梅が問うも、一心は嘆息して、首を横に振るばかり。


「みな、無事のようだな」

「支障はありません」

「無様に頭から池に落っこちて、危うくお父さんにこっぴどく叱られるとこだったよ」


 桃英タオインに続いて、シアン九詩ジゥシーの姿も確認できた。


(一心さまでないなら、いったい誰が、私たちをここまで呼び寄せた?)


 全員がそろって態勢を立て直すことができればよいのだが、各々があちこちに散らばった現状から、身動きが取れない。


 なぜなら、目下に広がるのは一面の蓮池。

 広大な水面に、小舟が百隻は浮かんでいるだろうか。そこに、早梅と黒皇、暗珠、一心、桃英、爽、九詩はそれぞれ着地していたのだ。


「ここ、本殿の蓮池に違いはないんですが」

「私たちが見て回った場所とは、ずいぶん様変わりしたもんだねぇ。びっくりしたじゃん、もー」


 いつもの調子で暗珠へ返す一方で、早梅は研ぎ澄ました刃のごときまなざしで、周囲の様子を見やった。


「夜も更ける刻になりますと、たくさんの遊覧船を浮かべ、この『舞台』にご用意した『商品』をお客人方が吟味する。それが、ひと夏に一度おこなわれる、燈角とうかく一の遊興でございます」


 肌を刺すほど張りつめた静寂に、男の声が響く。


 蓮池の中央に、日中は見られなかった浮島がある。

 離れの隠し扉を思えば、それも手の込んだからくりの一種なのかもしれない。

 橙灯篭に照らされたその浮島には、早梅にも見覚えのある壮年の男がたたずんでいた。


「ようこそ、おいでくださいました。羅暗珠ルオアンジュ皇子殿下」

「……やはり、そなたが黒幕だったか。チェン仙海シェンハイ


 世話係であるはずの太守が、暗珠を探して駆けずり回るわけでもない。それどころかこの混乱の中、忽然と姿を消していたのだ。

 わかりきっていたことだった。陳仙海こそが、獣人奴隷売買の首謀者なのだと。


「誤解にございます。わたくしはこの離宮の管理者として、場所を提供していただけのこと」

「人道に反する行為を看過していた時点で、同罪だ。言い逃れはするな!」

「いいえ。殿下といえど、わたくしを罪に問うことなどできません。皇帝陛下が、お許しになっておられることなのですから」

「……っ!」


 追及する暗珠を、陳仙海は流暢に、非情に、言葉の刃で刺し貫く。

 それはまだ心のどこかで父を信じようとしている暗珠を、容赦なく奈落へ突き落とす行為だ。


「本当に、何故なのでしょうね……陛下は『是』とおっしゃるのに、殿下は『否』とおっしゃるのは。滅びし一族、ザオ家の姫君。あなたが、殿下をそそのかされたのか」


 ふいに早梅へ視線を寄こした陳仙海の言葉は、早家滅亡の顛末に言及するものだ。


「陳太守、あなたは、どこまで知っているのだ……!」


 あかに染まる夜空そら

 叫び狂う深谷しんこくの街の人々。


 二年前の惨状が走馬灯のごとくよみがえり、怒りからぶわりと殺気立つ早梅に、陳仙海は答えない。


「此度のことは、殿下がご自身で判断なされたこと。殿下には殿下の意思がある。ルオ飛龍フェイロンに言われるがまま、されるがままの傀儡くぐつのような貴殿とは違ってな。陳太守」


 厳粛な態度で口を開いた桃英の言葉に、陳仙海はわずかだが、顔をしかめる反応を見せた。


「……例年であれば、『商品』の競売がおこなわれる時刻ですが、昨日さくじつの烏の丸焼き騒動がありましたので、お客人方も参加を断念されまして。えぇ、正義感のお強い殿下に、お目通りをご遠慮されたようでございます」


 ふいに一歩、二歩と歩を進め、陳仙海がその場を退く。


「お迎えすべきお客人がおらず、わたくしも手持ち無沙汰ゆえ、この陳仙海、代わりにみなさま方を、おもてなししとうございます」


 陳仙海が立っていた場所、そのすぐ背後には、人影がふたつあった。


「えー、皇子サマいるけど、いいのかなー」

「いいのいいの、遊んでもらおうよ。きゃははっ!」


 謎の人影は外套の帽子をまぶかにかぶっており、どちらも人相をうかがうことはできない。


(小柄で……それに、あの舌足らずな物言い……こどもか?)


 詳細はわからない。が、唯一わかることがあるとすれば、直前まで早梅たちに気取られなかったそのふたり組が、只者ではないということだ。


「それじゃあみんなで、あーそーぼっ!」

「いっけぇ! やっちゃえ! きゃはははっ!」


 高らかな笑い声が響き渡る。


(……来る!)


 神経を研ぎ澄ませた刹那、早梅の視界に、飛び込むものがあった。


「はッ!」

「ぐがっ!」


 足を振り上げた勢いもそのままに、くるりと後転する早梅。

 すかさず両足に内功を込め、水面に降り立てば、翼をはためかせた黒皇が並ぶ。


「お嬢さま、ご用命を」

「後方から援助をたのめるかい、黒皇」

「かしこまりました」

「なんだかんだ、初の共同作業だね」

「照れますね」

「照れてる顔に見えないって、こいつぅ」


 素早く早梅の指示をあおいだ黒皇が飛び立ち、後方へ退避する。

 冗談もそこそこに早梅が視線を戻せば、早梅に蹴飛ばされ、小舟に叩きつけられた人物が、うめき声を上げているところだった。


「ぐっ……うぅ……」


 つぎはぎだらけの粗末なきもの。のぞく手足は枯れ木のように細い。背丈は、早梅よりすこし高いかどうかという程度だ。

 早梅に襲いかかってきたのは、少年だった。


「梅雪さん!」

「ぐるぁっ!」


 すぐさま暗珠が駆けつけようとするも、別の影が襲いかかる。


「くそっ、この……ふざけんなっ!」


 ──バチィンッ!


「ひぎっ! うがががっ!」


 暗珠がこぶしを繰り出したと同時に、夜闇を稲妻が駆けめぐる。雷功らいこうを込めた一撃を鳩尾へまともに食らった相手も、背が高いばかりの、粗末な身なりをした痩せぎすの男だった。

 こちらは感電したように痙攣したのち、池に投げ出され、仰向けにぷかりと浮かび上がった。失神したようだ。


「う……うぅ……うぁああ……!」


 早梅を襲った少年が、うめきながら、よろよろと起き上がる。ボサボサの髪からのぞく黒い瞳は、焦点が合っていない。


「オォオオッ!」


 雄叫びを上げた少年が舟を足場に、跳躍する。


(高い! だが、動きのパターンは単純だ)


 早梅はすぐさま瑠璃の瞳で頭上の少年を捉えると、左の中指にはめた二連の指輪を引き抜く。やがて光とともに現れるは、純白の琵琶。


「ゆくぞ白姫パイヂェン──詠い舞え、『音吹雪おとふぶき』!」


 早梅はあおい梅花の螺鈿らでん細工がほどこされた白琵琶を、胸もとで掻き鳴らす。


 ベン!


 放たれた音波は、凍てつく衝撃波となって夜の静寂を切り裂く。


「お力添えいたします。──風功ふうこう


 黒皇の周囲に、つむじ風が巻き起こる。

 黒皇は吹きすさぶつむじ風を、力強い羽ばたきによって前方へ押し出した。

 それが追い風となり、勢いを増した氷の音波が、少年と衝突する。


「がッ! ぐふぅッ……!」


 少年は突風にもまれながら遥か遠くへ吹き飛ばされ、蓮池の岸辺に叩きつけられた。


「この少年の脚力……常人のそれではない。だが、武功をおさめた者とするには、手足のさばき方がでたらめすぎる」

「様子もおかしいです。とても正気とは思えません」


 とんっと水面を蹴った早梅は、先に岸辺へ降り立っていた黒皇の手を借り、危うげなく着地する。

 そうして、投げ出された少年を注意深くのぞき込むと。


「……ン…………モン…………萌萌モンモン……」

「なっ……」


 聞こえた。聞いてしまった。

 少年が、うわ言のごとくこぼした名前を。

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