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第206話 地図にない場所【後】

「怪我はないな? 梅雪メイシェ

「ふふ、花を避けて転びそうになるだなんて、梅雪さんらしいですねぇ」

「……お父さま! 一心イーシンさまも!」


 早梅はやめを抱きとめたのは、桃英タオインだった。すぐとなりに、朗らかな笑みを浮かべた一心の姿もある。


「ごめんなさい、ありがとうございます……」

「いい。礼なら黒皇ヘイファンに言いなさい」

「はい。助かったよ、黒皇……」

「当然のことをしたまででございますれば」

「へいふぁ〜ん!」

「梅雪さま、ご無事でようございました……!」

「し〜あ〜ん〜!」


 転びそうになった気恥ずかしさは、黒皇のひとことによって吹き飛ばされた。そこに、シアンの純粋な心配の声がかかり、早梅の情緒は崩壊する。

 やはり、持つべきものは愛烏まなからす、いや、圧倒的光属性の烏兄弟である。さすが元太陽。


「くそっ、また烏かよ……!」

「あー! ちょっときものが濡れちゃった! お父さんに叱られるー!」


 ふたたび黒皇が早梅の肩にとまるころ、暗珠アンジュ九詩ジゥシーも池を渡りきる。

 いつものことながら、暗珠は黒皇たちにガンを飛ばしている。

 九詩のほうは、水飛沫を立てすぎてしまったのだろう。濡れてしまった裾を見て、落胆していた。早梅たちとくらべてまだ未熟な軽功ではあるものの、池を跳んで渡る事自体、離れ業なのだが。


「陽動役の五音ウーオンたちを除き、これで、みなさんと合流できましたねぇ」


 折を見て一心が声をかける。すると、怪訝そうに顔をしかめた暗珠が、一心を見やった。


「後から合流すると聞いてたんですが……俺たちより早いなんて。門のほうの騒ぎを、どうやってすり抜けてきたんですか?」


 このとき、さて、どうしたものかと早梅は閉口した。

 暗珠の問いに対する答えを、早梅はすでに知っていたからだ。


「僕と桃英さまが、誰にも気取られることなく、どうやって離宮内部へ潜入することができたのか。不審に思われることでしょうね。えぇ、そうでしょうとも」


 暗珠へ向き直った一心は、平生のおっとりとした態度を崩さない。琥珀色の瞳を細め、にこやかに笑むだけだ。


「そろそろ、そのからくりを皇子殿下にもお教えいたします。なんてことはありません。僕たちは降ってわいたんですよ。この離宮のど真ん中から、ね」

「どういうこと、ですか」


 一心はほほ笑むばかりで、すぐには暗珠へ答えない。

 が、おもむろに若草色の袂に右手をさし入れ、なにかを取り出した。

 暗珠が暗闇で目を凝らすと、どうやら巻物のようだということがわかった。


「……それは?」

「『沙華絵図しゃげえず』──簡単に言いますと、地図絵巻です。僕が野良だったころも含め、これまでに訪れたすべての場所を記しています」


 一心はマオ族長となる以前、各地を放浪していた。それは、早梅も知るところだ。

 誰もが注目する中、静かに絵巻物を紐解きながら、一心は続ける。


「この『沙華絵図』に描かれた場所であれば、いかなる場所であっても、瞬時に転移することができます」

「待ってください……瞬間移動ってことですか!? あり得ない。いくら武功の達人でも、内功をどうこうしてできる範疇はんちゅうじゃない!」

「はは、殿下はいい反応をしてくださいますねぇ。おっしゃるとおり、僕のは、内功を利用したものではありません。八藍バーランや九詩たちの『以心伝心』と同じように、です」

「なんだって……?」


 意味がわからない、と言葉を失う暗珠をよそに、一心はしなやかな指先で、ひろげた絵巻物をなぞる。


発顕はつげんには個人差がありますが、古代より僕たち猫族は、内功とは別に不思議な能力が覚醒することがあります。僕のは、『空間支配』です。ゆえに僕は、街の料理屋からここまで、一瞬で桃英さまもお連れすることができたんですよ。もちろん、同時に転移する人数や、転移する範囲に、制限はありますがね」

「そんなことが……」

「ふふっ、可能なんですよ。ちなみに、『沙華絵図』にない場所であっても、詳細な地図があれば、ある程度の座標を定めて転移することができます。まぁ大体なので、離れよりちょっと遠ざかってしまいましたが。黒皇や九詩がつくってくれた地図がなかったら、もっとズレていたかもしれませんねぇ」

「あり得ない、あり得なさすぎる……」


 とんでもないことをほけほけと話す一心に、暗珠は頭を抱える。


「あはは……気持ちはわかるよ。私も話には聞いていたけど、実際目にするとびっくりしちゃったから」

「……なんだそれ。梅雪さんは知ってたんですか?」

「うっ……」


 暗珠を慰めるつもりで背をさすっていた早梅だが、そんなことより、暗珠はじぶんがのけ者にされていたことが気に食わないらしい。恨めしい面持ちで睨みつけてくるので、早梅は思わず笑みが引きつってしまった。


 もちろん一心の能力だけでなく、『猫族の機密事項』など、早梅はすべてを知らされている。

 が、今ここでそれを明かすのは悪手な気がして、早梅は口をつぐんだ。痛いほどの視線を暗珠から感じたが、笑ってごまかす。


「一心殿、殿下、そのあたりで」


 桃英の静かな仲裁によって、早梅を射抜く視線がなくなる。


「おっと、おしゃべりをしている時間はありませんでしたね。失礼いたしました」


 そういって謝罪した一心も、手早く絵巻物を紐でまとめ、袂にしまい込んだ。

 たったのひと言で場をおさめてみせた桃英に、早梅は涙を飲み、心の中で拍手喝采を送った。


「ではみなさま、参りましょうか。──これより先は、地図にもない、未知なる場所となります。どうぞ、お気をつけを」


 先導する一心はにこやかなままだが、その琥珀色の瞳は、笑ってはいない。


「ご安心ください。私が梅雪お嬢さまをお守りいたします」


 早梅の緊張を敏感に感じ取ったのだろう。ふわりとそよ風が吹き抜け、早梅の右肩にとまっていた烏が姿を消す。

 代わりに目前へ現れたのは、精悍な眼帯の青年だ。


「うん、ありがとう」


 ぽうっと胸にあたたかいものが灯るのを感じながら、早梅は差し出された黒皇の手を取る。


「ゆきましょう。罪のない獣人たちを、助けるために」


 暗珠、九詩、一心、桃英、爽、そして黒皇。

 誰もが、力強くうなずき返す。


 そうして早梅たちは、深まる夜闇の中へ、颯爽と駆け出した。

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