「怪我はないな?
「ふふ、花を避けて転びそうになるだなんて、梅雪さんらしいですねぇ」
「……お父さま!
「ごめんなさい、ありがとうございます……」
「いい。礼なら
「はい。助かったよ、黒皇……」
「当然のことをしたまででございますれば」
「へいふぁ〜ん!」
「梅雪さま、ご無事でようございました……!」
「し〜あ〜ん〜!」
転びそうになった気恥ずかしさは、黒皇のひとことによって吹き飛ばされた。そこに、
やはり、持つべきものは
「くそっ、また烏かよ……!」
「あー! ちょっと
ふたたび黒皇が早梅の肩にとまるころ、
いつものことながら、暗珠は黒皇たちにガンを飛ばしている。
九詩のほうは、水飛沫を立てすぎてしまったのだろう。濡れてしまった裾を見て、落胆していた。早梅たちとくらべてまだ未熟な軽功ではあるものの、池を跳んで渡る事自体、離れ業なのだが。
「陽動役の
折を見て一心が声をかける。すると、怪訝そうに顔をしかめた暗珠が、一心を見やった。
「後から合流すると聞いてたんですが……俺たちより早いなんて。門のほうの騒ぎを、どうやってすり抜けてきたんですか?」
このとき、さて、どうしたものかと早梅は閉口した。
暗珠の問いに対する答えを、早梅はすでに知っていたからだ。
「僕と桃英さまが、誰にも気取られることなく、どうやって離宮内部へ潜入することができたのか。不審に思われることでしょうね。えぇ、そうでしょうとも」
暗珠へ向き直った一心は、平生のおっとりとした態度を崩さない。琥珀色の瞳を細め、にこやかに笑むだけだ。
「そろそろ、そのからくりを皇子殿下にもお教えいたします。なんてことはありません。僕たちは降ってわいたんですよ。この離宮のど真ん中から、ね」
「どういうこと、ですか」
一心はほほ笑むばかりで、すぐには暗珠へ答えない。
が、おもむろに若草色の袂に右手をさし入れ、なにかを取り出した。
暗珠が暗闇で目を凝らすと、どうやら巻物のようだということがわかった。
「……それは?」
「『
一心は
誰もが注目する中、静かに絵巻物を紐解きながら、一心は続ける。
「この『沙華絵図』に描かれた場所であれば、いかなる場所であっても、瞬時に転移することができます」
「待ってください……瞬間移動ってことですか!? あり得ない。いくら武功の達人でも、内功をどうこうしてできる
「はは、殿下はいい反応をしてくださいますねぇ。おっしゃるとおり、僕の
「なんだって……?」
意味がわからない、と言葉を失う暗珠をよそに、一心はしなやかな指先で、ひろげた絵巻物をなぞる。
「
「そんなことが……」
「ふふっ、可能なんですよ。ちなみに、『沙華絵図』にない場所であっても、詳細な地図があれば、ある程度の座標を定めて転移することができます。まぁ大体なので、離れよりちょっと遠ざかってしまいましたが。黒皇や九詩がつくってくれた地図がなかったら、もっとズレていたかもしれませんねぇ」
「あり得ない、あり得なさすぎる……」
とんでもないことをほけほけと話す一心に、暗珠は頭を抱える。
「あはは……気持ちはわかるよ。私も話には聞いていたけど、実際目にするとびっくりしちゃったから」
「……なんだそれ。梅雪さんは知ってたんですか?」
「うっ……」
暗珠を慰めるつもりで背をさすっていた早梅だが、そんなことより、暗珠はじぶんがのけ者にされていたことが気に食わないらしい。恨めしい面持ちで睨みつけてくるので、早梅は思わず笑みが引きつってしまった。
もちろん一心の能力だけでなく、『猫族の機密事項』など、早梅はすべてを知らされている。
が、今ここでそれを明かすのは悪手な気がして、早梅は口をつぐんだ。痛いほどの視線を暗珠から感じたが、笑ってごまかす。
「一心殿、殿下、そのあたりで」
桃英の静かな仲裁によって、早梅を射抜く視線がなくなる。
「おっと、おしゃべりをしている時間はありませんでしたね。失礼いたしました」
そういって謝罪した一心も、手早く絵巻物を紐でまとめ、袂にしまい込んだ。
たったのひと言で場をおさめてみせた桃英に、早梅は涙を飲み、心の中で拍手喝采を送った。
「ではみなさま、参りましょうか。──これより先は、地図にもない、未知なる場所となります。どうぞ、お気をつけを」
先導する一心はにこやかなままだが、その琥珀色の瞳は、笑ってはいない。
「ご安心ください。私が梅雪お嬢さまをお守りいたします」
早梅の緊張を敏感に感じ取ったのだろう。ふわりとそよ風が吹き抜け、早梅の右肩にとまっていた烏が姿を消す。
代わりに目前へ現れたのは、精悍な眼帯の青年だ。
「うん、ありがとう」
ぽうっと胸にあたたかいものが灯るのを感じながら、早梅は差し出された黒皇の手を取る。
「ゆきましょう。罪のない獣人たちを、助けるために」
暗珠、九詩、一心、桃英、爽、そして黒皇。
誰もが、力強くうなずき返す。
そうして早梅たちは、深まる夜闇の中へ、颯爽と駆け出した。