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第205話 地図にない場所【前】

 侵入者あり。

 敵は単独、いや三人組の男。

 目的、不明。


 奔走する警備兵たち。錯綜する情報。

 にわかに騒然とする離宮内の様子を注意深くうかがいながら、早梅はやめたちは本殿を疾走する。

 目的はただひとつ。北東の離れへ。


「殿下! 皇子殿下はどちらにいらっしゃいますか!? ……あぁ殿下! ご無事で!」


 だが、広大な蓮池に取り囲まれた庭院にわへ出たところで、駆けずり回っていた警備兵と遭遇する。

 ふたり組の警備兵は、早梅と並走していた暗珠アンジュを見つけるやいなや、安堵を浮かべて駆け寄る。

 歩を止めた暗珠は、素知らぬ顔で警備兵たちに問う。


「夜分に騒がしいぞ。何事だ」

「侵入者でございます! 詳細は不明ですが、かなりの手練とのこと。このままでは、御身が危のうございます。わたくしどもがお守りいたしますので、お早く安全な場所へ……」

「必要ない。おのれの身はおのれで守る」

「なにをおっしゃいます!?」

「必要ない、と言った。私とて武功の使い手としての矜持がある。それとも何か? 虚弱で世間知らずの私が、おまえたちに劣るとでも?」

「そんな、めっそうもございません!」


 暗珠の畳みかけに畏縮する警備兵たちではあるけれども、依然としてその態度は煮えきらず、この場を去ろうとはしない。


「警備の手が足りないのなら、おまえたちも加勢すればいいだろう」

「それは、そうなのですが……」


 返答にまごつく警備兵を前にして、暗珠は嘆息する。

 侵入者があるというのに、しり込みをしている理由。

 そんなのは、得体の知れぬくだんの侵入者に怯えているからにほかならないだろう。


「この腰抜けどもが……」

「まぁまぁ殿下。誰だって命は惜しいものです。わたくしだって怖いですもの。あぁおそろしい!」


 見かねた早梅が、演技がかった口調でわっと暗珠へ泣きつく。その様子は、どこから見てもか弱い令嬢そのものだ。

「うっ……不意討ちは反則だろ……」と身悶えながら抱きしめ返してくる暗珠のことはとりあえず置いておいて、早梅はここでひとつ、カマをかけてみることにした。


「そういえば、あちらのほうがとても静かですね。舟がなければ侵入者も近寄れないでしょうし、避難するのにうってつけではないかしら。そう思われませんこと?」


 早梅が視線でそれとなく示したのは、北東。

 そう、この異常事態にあって、異様な静けさに包まれた離れの方角だ。

 このとき、警備兵たちがはっと息を飲み、顔色を変えるのを、早梅だけでなく、暗珠は見逃さなかった。


「僭越ながら……あちらは長らく使用されていない離れです。高貴な方々をご案内するような場所では……」

「あら、あんなに立派な建物ですのに、使われていないのですか? それはどうして?」

「っ、何だっていいでしょう! そもそも、あなたこそ何なのですか! 殿下の客人といえど、ぶしつけにたずねていいことと悪いことが──!」


 突然声を荒らげた警備兵が、早梅に詰め寄る。それに暗珠が顔をしかめて身構えた、そのときだ。


「がっ!」


 暗珠が制裁を加えるより先にどす、と鈍い打撃音が響き、警備兵がひざから崩れ落ちた。

 その背後にたたずんでいたのは、シアン


梅雪メイシェさまを傷つけるならば、俺が許しません」


 どうやら、目にも止まらぬはやさで警備兵の背後を取った爽が、延髄に手刀を決め、一撃で昏倒させたらしかった。


「な、何をする!? このっ……!」

「ったく、いいとこどりしてんじゃねぇです、よっ!」

「むぐぅっ!」


 残るもうひとりの警備兵が、顔を真っ赤に上気させて爽に掴みかかろうとするも、叶わない。

 こめかみにピキリと青筋を浮かべた暗珠によって、鳩尾に重いこぶしを叩き込まれたためだ。

 折り重なるように気絶した警備兵たちの頭上で、ぱちぱちと拍手の音が鳴り響く。


「わー、お見事ー。皇子さまにいたっては、やつあたりでしかないけど」

「なんだと?」

「ほめ言葉でーす」


 九詩ジゥシーだ。棒読みで暗珠の神経を逆なでする言葉を放ったかと思えば、持ち前の度胸で暗珠の威嚇を軽く受け流した。


「ともかく! うるさいのはいなくなったし、これで目的地まで一直線だよね。ねぇ梅雪さま?」

「そうだね。問題は、この大きな蓮池を、どうやって渡るかだけど」


 ぐるりとあたりを見回した早梅は、ひとこと。


「むり! 渡れない! ってひと、挙手してくださーい。私から特別に、魔法のアイテム……空も飛べる不思議な羽衣はねころもを支給しまーす」


 こんなこともあろうかと、以前金王母こんおうぼ静燕ジンイェンから譲り受けた七色の羽衣を持参したのだが、早梅の呼びかけに手を挙げる者は、いなかった。


「ご心配にはおよびません、梅雪さま」

「おい、痩せ我慢はよしたらどうだ」

「はぁ? 痩せ我慢とかしてないしー! 僕だって軽功使って池くらい渡れるしー!」

「あ、そう? じゃ、これはしまっとくね」


 なんとなくわかっていたことなので、力強く答える爽、口論する暗珠と九詩をほほ笑ましく思いながら、早梅は手にしていた羽衣をふところへしまう。


 舟を使わねば、池は渡れない。

 それは、常人に限った話だ。


「そいじゃ黒皇ヘイファン、先導よろしく!」

「おまかせを」


 早梅のひと声で、右肩にとまっていた黒皇が飛び立つ。

 濡れ羽の翼をはためかせて滑空する黒皇を頭上にとらえ、早梅は颯爽と、岸辺で踏み切った。


「そーれっ」


 体重を殺し、両足に気を集中させる。


「ふふっ、こんなものかな?」


 ひらり、ひらりと淡色の衣をひらめかせ、早梅は水面から水面へと飛ぶ。絹のくつで、軽やかに跳ねながら。

 早梅が跳ねるたび、木の枝から落ちた葉が水面をゆらすように、音もなく波紋がひろがり、水面に浮かぶ蓮の花が左右に分かれた。


(水面に舞い降りた天女に、蓮が道をあけているようだ……なんと優美な)


 おなじく軽功によって早梅の後を追いながら、爽はほう……と感嘆をもらす。


「梅雪さん! あんま調子乗りすぎないでくださいね! 池に落ちても知りませんよ!」


 早梅が池に落ちたら、血相を変えて真っ先に駆けつけそうな暗珠が、そんな憎まれ口を叩きながら軽功で続く。


「大丈夫、大丈夫、もうすぐ向こう岸に着くから〜、っとと、あぶなっ!」


 のほほんと返答した早梅だったが、そのとき、足もとに蓮の花があることに気づく。

 危うく踏みつけそうになるところを避けたのが、まずかった。

 気の込め方を損ね、ずぶ、と水面に足を取られてしまう。


「梅雪お嬢さま!」


 すぐさま旋回した黒皇が、猛然と羽ばたき、風を巻き起こす。


「わわっ!」


 後ろ向きに体勢を崩した早梅は、猛烈な追い風によって、前方へ吹き飛ばされた。

 だが、予想外の展開で体勢がととのわず、あわや対岸の地面へ激突するというとき、ふっ……と、空気抵抗が凪いだ。


「まったく、おまえはいつまでもお転婆だ」


 ふわりと包み込まれる感覚があり、ついで、穏やかな声音が。

 覚悟していた衝撃がいつまでたっても訪れず、そっと目を開けた早梅の目前にいたのは。

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