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第198話 宵にまたたく【前】

 茜と宵の入り混じった上空を、烏が旋回している。

 西日も、地平線へすがたを隠す時間だ。


 しゃらん、しゃらん。


 ふいに、どこからか音がひびいた。人の気配もある。

 あくびをもらしながら見回りをしていた男は、歩みを止めた。


「そこにいるのはだれだ?」

「まぁ、これは申し訳ございません」


 誰何すいかに応じたのは、からころと、鈴を鳴らしたように澄んだ少女の声。


「むっ……!?」


 薄暗闇に目をこらした男は、次の瞬間、眠気が吹き飛ぶような衝撃にみまわれる。

 目の前に現れた少女が、声色も去ることながら、なんとも美しい容姿をしていたためだ。


 艶のある翡翠の髪に、きらめく瑠璃色の瞳。

 桃色に色づいた唇は果実のごとく瑞々しく、淡色の衣に包まれた肢体は華奢だ。


「わたくしの大切なお供がいなくなってしまって。さがしていたら、このような場所まで来てしまいました。どうぞ寛大なお心でお許しくださいませ」


 眉じりを下げた少女が頭を垂れたとき、しゃらん、とまたしてもあの音が。

 どうやら先ほど耳にした音は、少女が挿した紅梅の簪が揺れる音のようだった。

 その淑やかな仕草を見れば、男も態度を一変させる。


「こ、これは失礼いたしました! 良家のご息女とお見受けいたします。よろしければ、私がお供の方をおさがしいたしますが」


 いい女を見つけたなら、やすやすと見送るわけにもゆくまい。

 男は鼻の下が伸びそうになるのをこらえつつ、人の良い笑みを浮かべて少女に手を差し伸べる。


「まぁうれしい! わたくしの大切な大切な愛烏まなからすなんです!」

「そうなのですか! んっ……? まなからす……烏?」

「──カァア!」


 男が首をかしげた頭上で、烏の鳴き声が響きわたる。

 見れば、ふつうの烏よりひと回りほど大きいだろうか、闇にまぎれる濡れ羽の両翼を羽ばたかせ、一羽の烏が少女のもとへ降り立つところだった。


黒皇ヘイファン! どこに行っていたの? さがしましたよ」


 花のようなかんばせで破顔した少女が、烏を胸に抱きしめる。

 烏もくすぐったそうに目を細めて、少女にすり寄るところを見れば、よく飼い慣らされた烏だとわかる。


「烏などと、不吉な……」

「なにかおっしゃって?」

「っひ……!」


 思わずこぼしてしまった男は、すくみ上がった。

 少女はほほ笑んでいる。ほほ笑んではいるのだが、外気温が一、二度下がったような、冷え冷えとした空気が男に吹きつけたのだ。


「し、しかしながら……われらがルオ皇室の始祖がおわします、かの『射陽伝説』におきましても、烏は太陽に化けて民衆を苦しめた妖鳥とされております」

「さようでございますか」

「そんな他人事のように! それにその烏、足が三本あるのでは……? あり得ません、悪鬼のたぐいに違いない!」

「うふふ、可笑しなことをおっしゃいなさるわ」


 いきり立つ男とは裏腹に、少女は笑みを深めるのみ。


「三本足の烏だなんて、普通ではありませんわ。とはいえ、まさか人に化けて悪さをするものでもないでしょう。獣人はいても、鳥人なんて聞いたことがありませんものね?」

「──!」


 そのとき、はっとした硬直した男を、少女が瑠璃の瞳で見つめる。ややあって、少女はふわりと笑みをほころばせた。


「なぁんて。夜も近いですから、きっと見間違いになられたのですわ。だって三本足の烏なんて摩訶不思議なものがいるとするならば、神の使い以外にあり得ませんもの」

「……そ、そうですか」

「こちらにいたか、わが姫」

「んなっ……!」


 ほっと胸をなで下ろした様子の男に、追い討ちがかかる。

 少女のもとへ、ひとりの少年が歩み寄ってきたからだ。

 漆黒の髪にあざやかな薔薇輝石の双眸をもつその少年には、見覚えがありすぎた。


「おっ、皇子殿下、お戻りだったのですか!?」


 今上陛下の血を継ぐ唯一の皇子、羅暗珠ルオアンジュ皇子殿下。

 その突然の登場にあわてふためく男を、暗珠は冷めたまなざしで見やった。


「だれの許しがあってこうべを上げるか」

「たっ、たいへん申し訳ございませんっ! お許しを!」


 男は即座にひれ伏し、地にひたいをこすりつける。


「まぁ殿下ったら、こわいわ。こちらの方は、困っていたわたくしへ、ご親切にお声がけしてくださったのですよ?」

「困り事なら、私に言えばよい」

「あら、妬いていらっしゃるのかしら?」

「わざわざ言わせずとも。わが姫は、意地の悪いことだ」


 なぜだろうか。よく見えないけれども、人がひざまずいている目の前で、いちゃいちゃされている気がする。

 暗珠の威圧感に圧倒されていた男は、「爆発すればいいのに……」と人知れず舌打ちをした。


「こちらの美姫は、いずれわが妃となる。私がなにを言いたいか……わかるな?」

「ひぃっ、肝に銘じます! では職務に戻りますので、これにてっ!」


 なんだこの皇子、こわい。

 尋常でない殺気を向けられた男は、口早に言い放つなり一目散に逃げ出したのだった。


 かくして、皇子殿下とその寵姫が残されたわけだが。


「あの野郎……やらしい目でハヤメさんじろじろ見やがって……殺すぞ」

「はい、クラマくん、そこまでにしとこうか」


 放っておいたら男を地の果てまで追いかけそうな暗珠を、皇子殿下が愛しやまない姫もとい早梅はやめが制止する。


「ていうか、あんたもフラフラほっつき歩くのやめてくださいよね!」

「えぇ!? 手分けして情報収集しようって、私提案したよね?」

「俺納得してない!」

「理不尽!」


 いまごろそれを言うのか。この年下鬼上司の取り扱いは、いつものことながら難しい、と早梅は苦笑する。


「もー、私はヘマなんてしないのに。そんなに信用ならないかな?」

「クラマさまは、早梅さまのことを心配しておいでなのですよ」

「てか、あんたもいつまでそこにいるんですか、代われよ」

「だめだこりゃ」


 黒皇がフォローするも、早梅に抱かれているのが気に食わないらしい。黒皇すらにらみつける始末の暗珠だ。早梅は頭を抱えた。


「クラマくん! 黒皇は空からここの偵察をしてくれてたんだよ」

「はぁ……わかってますよ、それくらい」


 燈角とうかくの街で知らない者はいないチェン太守の別邸。しかしてその実態は、皇帝陛下が極秘につくらせた離宮。

 広大な敷地すべてを網羅するためには、手分けをするほかなかったのだ。


「それで、偵察どうだった? 黒皇」


 早梅が腕の力をゆるめると、黒皇がひとつ羽ばたいて、早梅の右肩に止まる。


「つつがなく。建物の構造は把握いたしました」

「さすがだねぇ!」


 やはり、たよれるものは安心と信頼の愛烏である。

 上機嫌になった早梅が黒皇の喉もとの羽毛をなでていると、あわただしい足音が近づいてくる。


「あーもうっ! 抜け駆けしないでってばー!」


 駆け寄ってきた茶と黒の混じった髪の少年は、九詩ジゥシーだ。

 早梅が黒皇を可愛がっているのが面白くないらしく、薄緑の瞳を三角につり上げて抗議してくる。


「遅かったな」

「皇子さまのところの優秀な門番さんのおかげでね! 手荷物調べるの厳しすぎない? 身ぐるみぜんぶ剥がされるかと思ったよ!」

「とはいえ、殿下や梅雪メイシェさまと違って『お付きの者』でしかない俺たちが疑われるのは、当然のことですから」


 次いでやってきたシアンがなだめるも、九詩はふくれっ面のままだ。


「疑ってばっかだと人生楽しくないのに。人間ってやだねー」

詩詩シーシーがいてくれて、私は楽しいよ?」

「梅雪さま〜!」


 打って変わり、ふにゃあとほほをゆるめて抱きついてきた九詩を、早梅もよしよしと撫でてやる。

「離れろ離れろ離れろ……」と怨念のようにくり返している暗珠のことは、見なかったことにした。


「よし、みんなそろったことだし!」


 ぱんっと両手を打ち鳴らす早梅。その言わんとすることを察したのか、すり寄っていた九詩がわずかにからだを離した。


「じゃあ、みんなが見たこと、僕に教えて。僕からお父さんたちに『伝える』から。ひとつ残らず、ね」


 あかりが灯りはじめる宵。

 暗闇の中で、薄緑の双眸がいたずらっぽくまたたいた。

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