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第186話 夢か現か【後】

「あまり愛い表情をすると……虐めたくなる」


 飛龍フェイロンの様子が一変した。それまでのやつれた面持ちがうそのように、生命力がみなぎっている。


「ほら、どうした梅雪メイシェ。あらがわねば、抱いてしまうぞ? 私たちはたいそう相性がいいから、また孕んでしまうやもしれぬな」

「このっ……!」

「私が欲しているのは、あくまでそなたの『くちびる』……だがな梅雪、そなたが私の『からだ』を欲してくれさえすれば、すべてが『かみ合う』のだ」

「おのれ、はじめからそれが狙いか……!」


 暴れる早梅はやめの四肢をいともたやすく押さえつけた飛龍が、情欲に濡れた緋色のまなざしで見下ろしてくる。


「思い出せ。そのはらに精を注いだのはだれなのかを。そのからだを隅々まで愛しつくしたのはだれなのかを。さぁ梅雪、その細腕を伸ばせ。私が悦ばせてやろう。その鈴の声音で喘がせ、淫らによがらせてやろう。私に堕ちろ……梅雪。わが梅花の姫よ」


 脚のあいだにひざを割り入れられた状態で胸を押し返したとて、なんの抵抗にもならないだろう。

 とうてい逃げおおせぬことは、わかっていた。おのれには打つ手がない現状を、早梅は理解していた。

 ゆえに手を伸ばす。


「梅雪……」


 恍惚とした笑みで顔を寄せる飛龍のほほにふれることはなく、はるか頭上。血色の太陽を飲み込むかのごとく澄みわたった、瑠璃色の空へ。


 ──リィン。


 宝玉がこすれあうような玲瓏な音色がひびいた刹那、早梅の右の手首に、ぴんと結ばれた山吹色の紐が出現する。


「その手をいますぐ引っ込めな、この屑野郎」


 ──ビュオウッ!


 突如、氷風が吹きすさぶ。

 たちまちに白い風に巻かれた早梅が次にまぶたをあげたときには、翡翠の髪をたなびかせ、瑠璃の双眸で飛龍をにらみつける青年に抱き上げられていた。晴風チンフォンだ。


「やい、そこの。てめぇがかの有名な陰湿糞下衆屑野郎こと皇帝陛下とやらだな。はじめましてだが俺ぁもうてめぇが嫌いだ! うちの梅梅メイメイにベタベタさわりやがって!」


 こめかみに青筋を浮かべ、出会い頭にぶしつけな物言いをまくし立てる晴風を前に、飛龍が怪訝に眉をひそめる。それもそうだろう。


「……ザオ家当主は、たしかにこの手で殺したはずだが」

「ちげぇよ、はじめましてっつったろ。父ちゃんじゃねぇ、俺は梅梅の先祖おじいちゃんだ、残念だったな!」

「妙な気配だな……神か仙人か」

「話がはやくて助かるぜ。ついでにいいことを教えてやる。てめぇは金王母ばあちゃんに目をつけられてる。そのうち天罰が下るだろうよ。調子乗ってられんのもいまのうちだぜ、ハッ!」

「すごい悪人面です、フォンおじいさま」


 鼻を鳴らしてせせら笑う晴風を見上げながら、早梅は安堵をおぼえていた。

 殺したはずの早家当主と瓜ふたつの青年の登場は、飛龍に多少なりとも衝撃をあたえたはずだ。

 事実、風ひとつ吹かないこの世界に、粉雪は舞っている。

『飛龍の支配』に、ほころびが生じている証拠。


「てめぇに一発くれてやりてぇのは山々だが、最初にそれをすんのは俺じゃねぇ」


 ひとりでは力不足かもしれない。けれど晴風がそばにいる。

 かつての悪夢をふり払うためにも、早梅は凛として飛龍を見据える。


「あなたはひとを殺しすぎた。その罪を私が、私たちが裁こう。こんどは私が会いにゆく。待っていろ、ルオ飛龍フェイロン


 瑠璃と緋色のまなざしが、絡まりあう。


「……くっ……ふははは! なんとも熱烈な愛の告白だな!」


 敵意を向けられてなお、可笑しげにわらい出すその精神状態は、もはや常人の枠にはとどめられないものなのだろう。


「その言葉、たがえるでないぞ、梅雪」


 瞳孔のひらききった緋色の眼光に射抜かれるも、早梅はうろたえない。決して逃げないと、こころに決めた。

 一歩たりとも退かぬ早梅に、飛龍も満足げにわらう。


「今宵の遊興の礼に、私からもひとつ、よいことを教えてやろうか。はじまりの物語……わが祖先、ルオ緋龍フェイロンが太陽を射落とした伝説には、続きがある」

「……なんだと?」

「おい、下手な作り話で梅梅の気を引こうってんなら、ただじゃおかねぇぞ」


 飛龍がいうのは、おそらく『射陽伝説』に間違いないだろう。早梅のみならず、晴風も顔をしかめる話題だ。


「ふ……その様子、早家当主は、そなたに『すべて』を明かしてはいないようだな」

「……あなたはなにが言いたいのだ」

「わが羅皇室と早一族が、はるか昔から、とうてい切り離せぬ関係にあるということだ」


 なにを言っているのだ、飛龍は。

 古くから外界とのつながりを遮断してきた早一族が、皇室と関わりがあるなどと。


「早一族のみにつたわる秘薬『千年翠玉せんねんすいぎょく』──それがなぜうまれたのか、なにを原料としているのか、考えたことはあるか?」

「──!」

「その答えは、そなたの身近にあるぞ、梅雪」


 飛龍の言葉は、『すべて』を知っている者の口ぶりだ。


「迷え、足掻け。そして、必ずや私のもとへ来い、勇ましきわが姫よ」

「梅梅ッ!」

「風おじいさまっ……!」


 がくん、と視界がゆらぐ。

 ばらばらと足もとからくずれゆく世界で、晴風は叫ぶ。

 早梅が腕からこぼれおちてしまわぬよう、きつくきつく、抱きすくめた。

 早梅も腕をまわし、晴風の背にしがみつく。


「ゆめゆめ忘れるな、梅雪。私がそなたを愛していることを。次こそは──逃さぬ」


 土煙に飲まれる視界の端にとらえた飛龍は、わらっていた。

 それが、早梅が最後におぼえている光景だ。

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