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第185話 夢か現か【中】

「欲張りはいけません」


 近づく唇を、早梅はやめは指先で制す。


「あれもこれもとはしたない。ひとつを欲するならば、ひとつを諦めてくださいませ」

「諦める、とは?」

「からだか、くちびるか」

「諦めるものなどない。そなたのすべてが私は欲しい」

「──笑止」


 おしゃべりに付き合ってやったが、それもここまで。


「おいそれと明けわたすほど、私は気安くはないぞ」


 いまこそ、毅然として対峙するとき。


「いま一度問う。あなたが欲するのは、私の肉体からだか、くちびるか」


 沈黙。動くものはなく、風も吹かない。

 針の落ちる音すらわかるだろう静寂に、やがて衣ずれがひびき、止まっていた時を揺り動かした。


「そなたは、悪い女だな」


 ゆっくりと上体を起こした飛龍フェイロンと相対する。

 いまや笑みは剥がれ落ち、人形のごとくととのった顔貌からは、感情を把握しづらい。

 衣ずれが、またひとつ。ぐ、とのぞき込む緋眼が『なにを』見ているのか、早梅は瑠璃の瞳で見据える。


「……意地悪だ」


 吐息のようなつぶやき。

 飛龍が薄く笑んだそのとき、風が吹き抜け、視界の端で梅の枝がそよぐ。

 早梅が丸みをおびた瑠璃の瞳でまばたきをひとつするあいだに、男の体重がなだれ込んだ。


 とさり、とからだが沈み込む。

 気づけば長椅子に押し倒され、唇と唇をかさねられていた。まさに一瞬の出来事。


「『それ』が、あなたの答えか」


 早梅の問いに、わずかばかり顔を離した飛龍がほほ笑む。明確な言葉はなく、ふたたび熱がふれあった。


「……梅雪メイシェ……」

「ふぅ……」

「梅雪……梅雪っ」

「んんっ……」


 押し入った熱い舌に、より深く、呼吸を奪われる。

 粘膜をこする音、唾液をかき混ぜる音が脳に直接ひびくようだ。

 貪るとはこのことか。一心不乱に舌を絡め、冷えきった体温を熱で燃え上がらせながらも、早梅を抱き込んだ飛龍の腕がほどかれることはない。

 かつて早梅を絶望へ突き落とした指先が、衣のすきまから侵入することもない。


「まだ、辛抱をさせるか……それほどまでに甘い香りをはなっておきながら、私をさいなむのか……ほんとうに、悪い女だ」


 密着した飛龍のからだが、熱い。燃えるようだなんて生半可な言葉では表現できない。

 ともすれば死人のようでもあった青白い顔が、早梅にふれ、たちまちに紅潮したのだ。


 ひたい、まぶた、唇の端、ほほと絶えず早梅へかすめるだけの口づけを落とすうちに、飛龍の呼吸は浅く、速くなってゆく。


「梅雪……はぁっ」


 熱い吐息が鼓膜へふれ、悩ましく眉をひそめた飛龍に、ひとたび耳朶を食まれる。


「私がなによりも欲しいのは、そなたの愛だ。私を愛しておくれ。未来永劫、骨の髄まで愛すことを、私も誓おう……」


 どろりと濃密な熱をおびた睦言をささやいた飛龍が、薄笑う。

 そのとき、はじめて気づいた。近づく口唇のすきまから、牙のごとく鋭利な犬歯がのぞいていることに。


「愛している……梅雪」


 早梅はとっさに飛龍の胸を押し返そうとしたが、間に合わなかった。


 ──ずぶり。


「ッ! あぁああッ!」


 早梅の左の首すじに顔をうずめた飛龍の、鋭い鋭い『牙』が、肌をつらぬく。杭を打ち込むかのごとく埋め込まれたそれが、早梅を決して逃がしはしない。


「はっ……んっ」


 全身をかけ巡り、一点へ殺到する熱。

 傷に口づけた飛龍が、あふれる血液を啜っている。一滴もこぼすまいと、舌を這わせ、血を舐め取っている。


「っは……あまい、甘いな……どんな果実よりも瑞々しく、美味だ……力がわき上がるようだ……ふ、ははははっ!」


 高らかなわらい声がひびきわたった。

 とたん、空虚な世界が鮮烈に色づく。


 池の氷がとけ、浮かんだ蓮葉のあいだを紅色の鯉が泳ぐ。

 水辺にはおびただしい彼岸花が咲きほこり、漆黒の蝶が舞う。


 血のように赤い太陽に照らされた極彩色の世界は、現実味がない一方で、圧倒的な存在感を脳裏へ焼きつける。

 これは夢か、現か。

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