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第182話 虚城にて邂逅す【前】

 こんなつもりじゃなかった、とは、得てして手遅れのときにこぼす言葉である。


「あぁ、もうこんな時間です。お部屋までお送りしましょうか。それとも……私の寝室へいらっしゃいますか?」

「あああ帰りたいです、ひとりで帰れますからぁ!」

「さようでございますか。共寝ともねにあずかれないのはまことに残念ですが、梅雪メイシェさまのご意向ですものね。では、まいりましょうか」

「ひぇぇ近い近い近い……!」


 どうしよう、五音ウーオンがガンガンに攻めてくるのだが。

名筆なふで』がどのようなものかも詳しくきかず、安易に預かってしまった早梅はやめの自業自得ではあるが、それにしたってこれはまずい。


 ごく自然に肩を抱かれる。夜風も受けつけない密着度は、「私たち夫婦ですから」という五音による言外の主張にほかならなかった。


「あれ、五音じゃない。梅雪さんもいっしょでしたか。見せつけてくれますねぇ。妬けちゃうなぁ」

「はうっ!?」


 そんなとき、ほわほわとお花を飛ばしながらのんびり声をかけてきた、通りすがりの三毛の青年は、もしかしなくとも一心イーシンだ。

 なぜだ、なぜこのタイミングなんだ。待ってくれ。

 しかし悲しいかな、早梅の懇願に、神はそっぽを向いた。


「女性をあまり引きとめてもいけませんから、お先に失礼しますね、一心さま」

「そうだよね。今夜のところは五音に譲って──おや? なにか落としましたよ、梅雪さん」

「へっ? なにかってなに……いやーっ!」


 見てはいけないものを見てしまった。

 いつの間にか懐からこぼれていた黒染めの包みを、ご親切にも一心が拾い上げてくれる光景だ。

 発狂する早梅をよそに、「これはこれは」と笑みを浮かべる五音は、どこか楽しそうだ。


「一心さま! まだ間に合います、それを私に……ってもう手遅れでしたね!」


 とっさに弁明を試みた早梅だが、包みを拾い上げた中腰の姿勢で固まる一心を目にし、悪あがきだったことを悟る。

 包みの中身は栗毛に白と黒まじりの毛筆。残る『名筆』のもち主こそ、一心なのである。


(終わったな……いろんな意味で)


 ちょっとした呼吸困難くらいで済むだろうか。

 襲い来るであろう襲撃にそなえ、身構える早梅ではあったが、その予想は思わぬかたちで裏切られる。


「あぁ、梅雪さん……」


 黒染めの包みごと筆を抱きしめた一心が、小刻みに肩をふるわせる。

 その琥珀の双眸からは、ぽろぽろと、大粒の雫がとめどなくこぼれていた。


「えっ、一心さま泣いて……うそでしょ!? 一心さまっ!?」

「これで泣くなだなんて、無理です……僕、君だけを想って、これまでだれとも結婚しなかったんですから……」

「それはたいへん恐縮なお話なのですが、えっと」

「やっと……やっとこの想いがむくわれる」

「あのう、お話をきいて……」

「あぁ、この生涯で、いまこのときが最高にしあわせです、愛しています、僕の花嫁さん……っ!」

「ぐぇぇっ」


 かくして感極まった一心による圧迫攻撃が、時間差で襲いかかる。


「こどもの名前はなんにしますか? 結婚式はいつにしましょう?」

「順序! 順序がおかしくないですか!」

「おかしくはないですね。マオ族は花嫁を妊娠させてから、安産祈願も込めて婚儀をおこないます。こどもができにくいので、夜伽もそれなりに回数をこなさないといけません。ちなみに複数ですればするほど、妊娠確率は上がります」

「ご丁寧にありがとうございます五音さま!」


 できればききたくなかった解説である。

 詩でも詠むような知的な声音で、赤裸々なことを暴露しないでほしい。


「ご安心を。すでに房中術は叩き込んでありますから、九詩ジゥシーたちも、梅雪さまのお相手をしてさしあげられるかと」

「えっ、これからする? みんな呼んでこようか?」

「しませんっ! 呼ばなくていいですっ!」


 もはや情緒もへったくれもない。

 ここははっきり「否」と断言しなければ、あれよあれよと流され、猫族の男衆総出で『あんなことやこんなこと』をされてしまいかねない。


「それじゃあ明日ですか? 明後日?」

「しませんからっ!」

「そんなぁ……あんまりお預けをされると、さびしいです……添い寝、させてください……」

「ぐっ……いやいやいや! 流されませんから!」

「すこしはがまんできますが、その分激しくなります……」

「さらっとえげつないこと言いますね!?」


 まだ涙の残る琥珀の瞳でうるうると『おねがい』されるが、すんでのところで踏んばった。

 一心のそれは無自覚なのかそうでないのか。どちらにせよ。


 ──猫族の貞操観念、こっわ……


 添い意味深されることが決定している話の流れに異議申し立てをしたいが、気力が尽きてしまった早梅であった。

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