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第180話 紅顔人【前】

 黒皇ヘイファンは冷静沈着な男ではあるが、この夜ばかりは、眉間に刻んだ深いしわを隠し得ない。


「……早梅はやめさま」

「うん?」

「しまりのないお顔をした青風真君せいふうしんくんが、お部屋の前に押しかけていらっしゃるのですが」

「あぁ、私が呼んだ。ちょっとおねがいしたいことがあって」

梅梅メイメイ〜、愛しのおじいちゃんが来たぞ〜う!」

「枕まで持参する必要があるのか、甚だ疑問なのですが」

「あはは〜」


 なにも知らない過保護な愛烏に、早梅は笑ってごまかす。

 髪に櫛は通したし、あとは寝支度をして、床につくだけだ。


「ん? ……あっ、やば!」


 ところが、髪飾りを仕舞おうとしたところで、気づくことがある。


 化粧台には、牡丹に黄梅、菫、鈴蘭、花翡翠と、色とりどりの花簪をおさめた花梨と紫檀の小物入れがある。そのとなりには、一輪挿しを模した梅の花簪。


 そして──装飾品のなかで異彩をはなつ、黒染めの布を紐でたばねた包みが。

 深く考えるまでもなく、布製の包みを引っつかんだ早梅は、へやの入り口に向かって駆け出していた。


「よっ梅梅! ご所望どおり添い寝に来たぞ──」

「ちょっと用事を思い出しました! さきにお休みになっていてください、フォンおじいさま!」

「って、んえぇっ!?」

「黒皇も、あとよろしくねっ! じゃっ!」

「お嬢さま、どちらへ」


 べつにやましいことをするわけでもないので、早梅は溌溂と声をあげる。


「預かってたものを返しに!」



  *  *  *



 事の発端は、皇子殿下こと暗珠アンジュが、早梅をさがして屋敷を電撃訪問した翌日。


梅雪メイシェさまにおわたししたいものがありまして。あぁ、ご心配なく。少々預かっていただければ、

「は、はぁ……?」


 世間話でも振るような感覚で、五音ウーオンが差しだしてきた『あるもの』──

 おどろくべきことに、それを皮切りにして、似たような出来事が立て続けに起こる。


「五音のやつに抜け駆けはさせねぇよ」

「お父さんだけずるい! 僕も!」

「俺だって負けてないしー!」

「おっと。出遅れてしまったかなぁ」


 五音に対抗したのか、六夜リゥイ九詩ジゥシー八藍バーラン一心イーシンも同様に『あるもの』を『預かってほしい』と申し出たのだ。


「あら〜! うふふ、『それ』はね、マオ族にとって命とおなじくらいたいせつなものよ。大丈夫大丈夫! どうあつかえばいいかは、そのうちから!」


 いったい何事かとしばらく頭を悩ませていた早梅ではあったが、七鈴チーリンに相談したことによって謎は深まり、さらに頭をかかえたのは、つい先日の話。

 それから数日のあいだ、怒涛の出来事ですっかりさっぱり機会を見失っていた。

 それを、ついさっき思い出した。いまここ。


「そういえば、猫って夜行性だったっけ……」


 意気揚々とくり出した早梅は、早々に気力をうばわれ、燭台の灯る回廊をぐったりと歩いていた。

 理由は単純。双子をたずねたところ、ふだんとは桁ちがいのハイテンションで『すりすり』されてしまったためだ。

 ちなみに成人した八藍、九詩は父親によく似た長身の美男子であるため、引き剥がすのに相当な労力を要した。


 それに次ぐ六夜からは真顔で「抱くぞ?」といわゆる壁ドンなるものを頂戴したが、「六夜さまのばか!」と鳩尾に一発かまさせていただいた。

 ダブルコンボでクリティカルがキマッたことを、当の早梅が知らない。


 そして現在。


「あとは一心さまと……」

「おや? こんばんは、梅雪さま。すてきな月夜ですね」

「……五音さま!」


 ちょうど庭に出たところで、キジトラを思わせる茶黒の髪に、にこやかな糸目の青年を発見した。

 今宵は雲がない。澄んだ夜空に、無数の星と望月がかがやいている。


 庭へおりる石段に腰かけた五音の右手には筆。ひざの上には短冊。

 どうやら月見をしながら、一句したためているようだ。風流を重んじる五音らしい。


「こんばんは。五音さまにお会いしたいと思っていたところだったんです」

「うれしいお言葉ですね。こちらへいらっしゃいませんか? 燈角とうかくの夜は冷え込みます」

「それじゃあ、失礼して……」


 となりへ腰をおろすと、五音が羽織を脱ぎ、そっと肩へかけてくれる。

 香でも焚きつけていたのだろうか。ふわりと鼻腔をくすぐられる感覚が、なんとも心地よい。

 ついうとうとしそうになる早梅だが、はっと踏みとどまる。いけない、本来の目的を忘れては。


「夜分にごめんなさい。五音さまにおわたししたいものがあって」

「私に?」

「はい。明日はそれどころじゃないと思ったので、お預かりしていたものを、お返ししますね」


 懐から取り出した黒染めの布を紐解くと、中には筆が二本。そのうちの一本を差し出す。五音を思わせる、茶と黒の毛筆だ。

 とたん、五音が笑みをひそめる。筆を目にして表情を一変させるのは、八藍も九詩も六夜もおなじだった。


 右手を伸ばした五音が、筆の柄をするりとなで、ひと言。


「梅雪さま、この筆を、お使いになりましたね?」

「……使ってないです」

「うそはいけませんね」


 早梅の照れ隠しが一瞬にして看破されるのも、毎度のこと。


「あなたがこの筆でなんと書いたか、当ててみせましょうか」


 ゆるりと、五音の口もとが三日月を描く。

 そして筆を取り、さらさらと宙へ走らせた。


「──『玲音リンオン』」


 言霊が発された刹那、筆先がまばゆい光をはなつ。

 宙に浮かび上がった白い光のふた文字。五音がおもむろに指先でふれると、ぱっとはじけた光の粒が、彼の胸もとへ溶けていった。

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