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第170話 偏愛の烙印【中】

 話し合いを終えた早梅はやめのすがたは、憂炎ユーエンとともに、屋敷の回廊にあった。

 もう暗くなるので、今夜は泊まってはどうかと一心イーシンが提案したため、早梅が客室までの案内を買って出たのだ。


「お夕飯は藍藍ランラン詩詩シーシーが作ってくれてるから、支度できたら呼びにきてくれるはずだよ」

「藍藍? 詩詩?」

「藍藍は六夜リゥイさまのこどもで、詩詩は五音ウーオンさまのこどもなの。こないだ成人したばかりだけど、まだまだ無邪気でかわいい子たちだよ。むかしの憂炎みたいに───」


 とここまで言って、早梅ははっとする。


「ふぅん」


 にこやかに一心たちと言葉を交わしていた憂炎だが、早梅の言葉に生返事を寄こす。

 早梅より頭ひとつ分高い場所にある美青年の尊顔は、面白くなさそうに唇をとがらせていた。


 そこでようやく、早梅は自身の浅はかさを悔いる。

 じぶんたちがどのようにして離ればなれになったのか、忘れていたわけではないけれど。


「……ごめんね、憂炎」

「どうして謝るんですか?」

「私は君に、酷いことをしたろう」

「なにを言っているのだか」

「そうだよね……恨まれてもしかたないって思ってる」

梅雪メイシェ。あなたがなにを言っているのか、なぜ謝る必要があるのか、わたしにはわかりません」

「え……?」


 はたと立ち止まる。一歩先でふり返った憂炎の表情は、薄暗い逆光のせいでよく見えない。

 ただ、語りかける憂炎の声音は、やわらかいものだったように思う。


「二年前、梅雪がわたしを突き放した言葉は嘘だって、すぐにわかりました。やさしいあなたが、わたしをすすんで傷つけようとするはずがないですから」

「だけど……それは感情論じゃないか」

「じゃあ、こう言えばいいですか? 無理なんです、不可能なんです。あなたが言っていたことは、物理的に」

「どういうことだ……?」

「梅雪、当時のわたしが何歳だったか、わかりますか? 十四歳です」

「十四歳、だって……!?」

「えぇ。ラン族の男子は十五歳で成人なので、一年前に族長になりました。さっきの話しぶりから察するに、あなたも獣人が成人するとどんなふうに成長するのか、もう知ってますよね?」


 もちろんだ。成人した獣人は、肉体的にも精神的にも急激に成長する。いまの憂炎のように。

 だけど、そうではない。憂炎が真に告げようとしていることは、ほかにある。


「あなたに会うまでわたしも散々な人生を送ってましたし、押せばコロコロ転がるようなひょろひょろの小僧に見えたかもしれませんが、十四歳だったんです」


 そう、十四歳だった。おおむね七、八歳だろうという早梅の予想を、大きく外れて。

 それが暗に示すことは、つまり。


「あなたはわたしの母を射殺したと言いましたが、おかしいと思いませんか?」


 母に崖から突き落とされたのは、五歳のとき。

 幼い憂炎が涙ながらに話していた記憶が、唐突によみがえる。


「わたしたちは二歳しかちがわないのに、七歳のか弱い女の子が、獰猛な狼を射殺したんですか? 無理ですね、あり得ない。だからあのときの梅雪の言葉は、ぜんぶ嘘です」

「私は……」

「追っ手がせまっていたんですよね。わたしを逃がすために、あんな行動を……それも、母に対するわたしの恨みさえ、肩代わりしようとして。こんなにやさしいあなたを、どうやって恨めばいいんですか」


 憂炎には見抜かれていた。なにもかも。


「あのとき、わたしが強ければ、あなたが独りで背負い込む必要はなかった……わたしは、じぶんがいちばん許せなかった。だから強くなろうって決めたんです。武功をきわめて、教養を学んで、あなたにふさわしい男になって、かならず迎えに行こうと」

「憂炎……」


 うつむく視界にかかる影があり、早梅はほほを包み込まれる。

 見上げた先で、射し込んだひと筋の茜色が、ほほ笑む憂炎を淡く照らす。

 こつり、とひたいが合わさり、月白げっぱくの髪が顔をくすぐった。


「ねぇ……いっぱいがまんしたし、がんばったでしょ? 俺のことほめて。ご褒美ちょうだい、梅姐姐メイおねえちゃん?」


 甘えたような声をもらす青年は、成長していても、やっぱり憂炎で。


「うん……がんばったね、憂炎。ありがとう。きょうは憂炎の気がすむまで、かまってあげるからね」


 だからその発言も、無邪気な幼子をあやすような感覚だったけれども。


「ほんとう? もう嘘はついちゃ、やだからね?」


 ゆるりと憂炎の口もとが弧を描き、柘榴色の瞳が煌めいた瞬間、早梅はなにか選択を間違ってしまったような、そんな気になった。

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