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第169話 偏愛の烙印【前】

 日中、一心イーシンが留守にしていたあいだに、思いもよらない出来事が立て続けに起こったようだ。


「おじゃまさせていただいております、一心さま」


 応接間をかねた大室おおべやの円卓に、一心も見知った白髪の青年のすがたが。


「おかげさまで、砂浜からひと粒の真珠を見つけられました」


 青年がゆるく笑んだ拍子に、しゃらりと、耳飾りの柘榴石が音を奏でる。


「……ようこそおいでくださいました。歓迎いたします、憂炎ユーエンさま」


 もはや言い逃れは、できない。

 一心にできるのは、ただただ、なりゆきに身を任せることだけだった。



  *  *  *



 おのれのほかに円卓をかこむのは、一心、憂炎。

 早梅はやめの向かって左側、椅子のそばには六夜リゥイが立っており、一心のそばには五音ウーオンがひかえている。


 この場において、現在もっとも注目されているのは、上品な所作で茶杯に口をつける憂炎だ。


(……私が知る憂炎とは、まるで別人だ)


 箸もうまくあつかえず、見よう見まねでぎこちなく茶をすすっていたかつての幼子が、目の前の彼だというのか。


(|狼《ラン》族は、ほかの獣人族とはほとんど交流がないときいた。その憂炎が、一心さまと面識があるということは、つまり)


 ふと、柘榴色の瞳と目があう。

 ふわりとはにかむ美青年の面影は、否定するまでもなく、かつて離別した少年のものだった。

 憂炎は音もなく茶杯を置くと、卓上で長い指を組む。


「一心さま。先におつたえしておきますが、わたしがうかがったのは、抗議のためでもなんでもありません。あなたがたが梅雪メイシェを匿っていらしたことは、知っていましたからね」

「ご存知の上で、知らないふりをなさったと……あなたは、なにをお望みなのですか」

「簡単なことです。誠意を示させていただきたく」

「……誠意?」

「同盟を結びませんか。あなたがたと、わたくしたち『焔魔教えんまきょう』で」

「魔教だって……俺たちにひとの道を外せと!?」

「六夜、落ち着け。一心さまに恥をかかせるつもりか」


 言を荒らげる六夜を押しとどめる五音ながら、その声音は険しい。

 ふだんの笑みも一切なく憂炎を見据えるさまは、五音も反感をいだいていることを如実に物語っていた。


「あぁ、誤解なきよう。あくまで同盟ですので、力を貸せだとか、あれこれ強制するつもりはございません。それとおなじように、わたしたちのなすことに、邪魔をしないでいただきたいのです」

「いわゆる不可侵条約、ですか」

「そうとも言いますね。ただわたしたちも人情がないわけではないので、その一点さえお約束いただければ、万が一の際、わが『焔魔教』はいち早く駆けつけ、あなたがたをお守りすることを誓います」

「なるほど。そうすれば、お守りできますものね。──お言葉を返すようですが、そのような気遣いは結構」


 低くうなるような厳しいひと言を放ったのは、一心だろうか。


「『誠意を見せるから誠意を見せろ』というのは、立派な脅迫ですよ。われわれを見くびらないでいただきたい」


 早梅は息をのむ。これほどまでに容赦なく追及する一心をはじめて目にし、圧倒されてしまったゆえに。


「……あははっ!」


 そんな中、可笑しげな笑いがあがる。追及されているはずの憂炎からだ。


「ははっ、たしかにそうだ、おっしゃるとおりです。安心しました。あなたがたが、わたしみたいな若造にしっぽを巻いて逃げ出すような腰抜けじゃなくて」

「……試したのですか?」

「確認、ですよ。これまで彼女をお守りくださったみなさまですから、心配なんて、あってないようなものでしたが。えぇ、信じておりましたとも」


 いったい憂炎はなにを考え、なにを言わんとしているのか。


を守っていただき、こころよりお礼申し上げます」


 当人の口からつむがれたそのとき、一心らは、みじんも笑ってはいない柘榴色の双眸を目の当たりにした。

 ともすれば、首すじへ刃を突きつけられたに等しいが、一心はうろたえない。


「梅雪さんは、われわれにとってなくてはならない存在。マオ族の威信をかけてお守りするのは、当然のことです。それでも、梅雪さんが望まない限り、彼女はだれのものでもない」

「……ほう?」

「彼女の尊厳をおびやかさず、尊重すること。それを誓っていただけるならば、狼族のご意向を歓迎しましょう。あぁ、これは憂炎さまに梅雪さんを害する可能性があるから申し上げているのではなく、ここにいるわれわれ全員が誓っていることですので、どうぞ誤解なきよう」

「一心さま……」


 いや、一心だけではない。

 六夜も、五音も、同様の面構えで、毅然として前を見据えている。


(こんなに……たいせつに想われていたなんて)


 当たり前のようにそばにありすぎて、早梅は甘えていたことすら気づかなかった。

 もう甘えているばかりでは、その想いを享受するだけでは、いけないと思う。


 しばしの静寂に、憂炎はなにを思うたか。


「もちろん。わたしが彼女を傷つけることは、天に誓ってありません」


 にこりと笑んだ憂炎が、恭しく右手を差し出す。


「では、これからは同志として、末永くよろしくおねがいいたしますね」


 一心もほほ笑み、憂炎の手をにぎり返す。

獬幇かいほう』を脱退した狼族長による直々の同盟申請。

 この瞬間、彼らにとって猫族は、『特別な存在』となった。

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