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第167話 飛べない烏【前】

 絶句した早梅はやめが一歩、後ずさる。

 とす、とその軽い体重を胸に受けたシアンは、唇を噛みしめた。


 もしも、だ。もしいまここに、じぶんがいなかったら。

 さえぎるものがなかったなら、彼女は淡色の衣をひるがえしていただろうか。


 しょうもない妄想かもしれない。だけれど、ざわめく鼓動に耐えかねた、二羽の子烏を抱いていない爽の左腕は、知らず知らずのうちに少女の細腰へ回されていた。


「……教主さま、梅雪メイシェさまをお連れしましょう」


 これに、早梅がおどろきおののく原因となった憂炎ユーエンは、きょとんと首をかしげる。

 感情表現に乏しい爽が、こうして声をふるわせながら意見したことが、記憶の限りないからだ。


「おやおや。おまえの言っていた『会わせたい人がいる』という口説き文句は、もう使えないけど?」

「さらいましょう」

「ちょっと。どこからつっこめばいいんですか、落ち着きなさい」

「ですが……っ」


 柄にもないことを口走っている自覚は、爽にもあった。それでも、ぐるぐると思考を掻き回す得体の知れない不安を、抑えることができない。


 内功をそそがれてから……早梅のこころにふれ、そのぬくもりを知ってから、からだの熱が冷めやらないのだ。


「爽。そんなに強く締めつけたら、彼女が苦しいでしょう。離して」

「……っあ」


 指摘されてようやく、一切の加減を忘れて腕の力を強めていたことを理解した。

 爽の腕がゆるんだその隙に、憂炎は顔をしかめた早梅の腕を引き、抱き寄せた。


「びっくりしたよねぇ。悪気はなかったんだよ、ごめんねぇ……よしよし」


 華奢なからだをすっぽりと紺青の袖に仕舞い込んだ憂炎は、まるで幼子をあやすかのように、早梅の頭をなでている。


「ねぇ爽、いつもいっていることだけど、念のため確認ね」


 愛情に満ちあふれたまなざしで早梅の背をさすっていた憂炎は、一変。


「どんな理由であれ、梅雪を傷つけたときは──おまえでも殺すよ」


 ……ぞわり。


 瞳孔のひらいた柘榴色の双眸に射抜かれ、爽は戦慄した。

 ついで、おのれの愚かさに頬肉を噛む。


(あぁ。さらって……さらえたとして、彼女が俺を見てくれると、どうして思えたんだろう)


 身を焦がすこの想いは、無垢な彼女にとって、重荷でしかないだろうに。


「……出すぎた真似を、いたしました」

「いいですよ。爽が悪い子じゃないって、わたしは知ってますからね」


 先ほどまでの殺気はどこへやら。にっこりとほほ笑んだ憂炎は、「さてと」と声をあげたのち──瞬時に半身をとり、袖をふった。


 ──ばりばりばりぃっ!


 薄暗い路地裏で放たれた蒼炎に、金色こんじきの稲妻が絡まる。

 まばゆい光が爆ぜるまで、一瞬のこと。

 炎と雷。拮抗する内功の衝突。


「──彼女を離せ。いますぐに、だ」


 柘榴色の瞳を細めた憂炎の目前に、ひとつの影がそびえ立つ。

 風になびく漆黒の艶髪、怒りにたぎる薔薇輝石の双眸をもつ少年が。


「俺がいきます」

「爽」


 すぐさま前に出る爽を、憂炎は名を呼ぶことで制止する。

 あちらからすれば、薄暗い路地裏、男がふたりがかりで、か弱い少女に迫っている構図だ。


「もしかしてわたしたち、悪者です?」


 ひとつため息をついた憂炎は、早梅を胸にかばいながら、依然として殺気を寄こす少年へ向き直る。


、まず話し合いをしませんか?」


 平和的にね、とほほ笑んでみせて。



  *  *  *



 頭上を流れる雲が、茜に染まっている。

 昼下がりに早梅が街へくり出してから、ずいぶんと時間がたっていたようだ。


(どうしたもんかなぁ……たすけて、|黒慧《ヘイフゥイ》)


 西に沈みゆく太陽を見上げ、早梅は胸中で切実に懇願する。きこえるわけがないと、わかってはいても。


 ちなみに、とほうに暮れる早梅の右手を引くのは、にこにこと笑みをくずさない憂炎。

 かたや左手を引くのは、鉄壁の仏頂面をうかべた暗珠アンジュだ。


 あのあと。早梅を追って路地裏に駆けつけた暗珠と憂炎によるひと悶着は、諸々あってなんとかおさまった。

 が、両者ともに『女性をひとりで帰すわけにはいかない紳士論』のもち主らしく、早梅を送ると主張してゆずらない。

 その結果、現状にいたったわけである。道中、暗珠は無言であり、憂炎もにこやかながら、早梅にしか話しかけてはこなかった。

 ふられたのはとりとめのない話題だが、「うん、うん……そうだね」と相づちを打つのでせいいっぱいだった早梅である。


 暗珠のそれとない道案内により、無事屋敷へ戻ることが叶ったが、門前でのこと。


「……俺は、こちらでお待ちしております」


 おもむろに口をひらいたのは、それまで息を殺し、影のごとく三歩後ろで付き従っていた爽だ。

 早梅がふり返れば、その表情は太陽に雲がかかったかのごとく、翳っている。

 なにが爽にそう言わせたのか、早梅にはわかった。想像できたからこそ、こう語りかけるのだ。


「爽も来て」

「……いいえ、俺はいけません」

「夜まであっという間だよ。外で待っていても、子烏ちゃんたちが凍えてしまうだけだよ」


 早梅はあくまで、爽が腕に抱く烏たちのためだとうそぶいてみせる。


「……あなたは、ずるいです。そんなふうに言われたら……」


 夜色の瞳がゆらめく。うつむき、葛藤する爽のすがたを見つめると、あぁ、彼は心根がやさしいんだな、と早梅の胸に熱がともった。


「──梅梅メイメイっ!」


 そんな黄昏の静けさに、よく通る声がひびきわたる。

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