絶句した
とす、とその軽い体重を胸に受けた
もしも、だ。もしいまここに、じぶんがいなかったら。
さえぎるものがなかったなら、彼女は淡色の衣をひるがえしていただろうか。
しょうもない妄想かもしれない。だけれど、ざわめく鼓動に耐えかねた、二羽の子烏を抱いていない爽の左腕は、知らず知らずのうちに少女の細腰へ回されていた。
「……教主さま、
これに、早梅がおどろきおののく原因となった
感情表現に乏しい爽が、こうして声をふるわせながら意見したことが、記憶の限りないからだ。
「おやおや。おまえの言っていた『会わせたい人がいる』という口説き文句は、もう使えないけど?」
「さらいましょう」
「ちょっと。どこからつっこめばいいんですか、落ち着きなさい」
「ですが……っ」
柄にもないことを口走っている自覚は、爽にもあった。それでも、ぐるぐると思考を掻き回す得体の知れない不安を、抑えることができない。
内功をそそがれてから……早梅のこころにふれ、そのぬくもりを知ってから、からだの熱が冷めやらないのだ。
「爽。そんなに強く締めつけたら、彼女が苦しいでしょう。離して」
「……っあ」
指摘されてようやく、一切の加減を忘れて腕の力を強めていたことを理解した。
爽の腕がゆるんだその隙に、憂炎は顔をしかめた早梅の腕を引き、抱き寄せた。
「びっくりしたよねぇ。悪気はなかったんだよ、ごめんねぇ……よしよし」
華奢なからだをすっぽりと紺青の袖に仕舞い込んだ憂炎は、まるで幼子をあやすかのように、早梅の頭をなでている。
「ねぇ爽、いつもいっていることだけど、念のため確認ね」
愛情に満ちあふれたまなざしで早梅の背をさすっていた憂炎は、一変。
「どんな理由であれ、梅雪を傷つけたときは──おまえでも殺すよ」
……ぞわり。
瞳孔のひらいた柘榴色の双眸に射抜かれ、爽は戦慄した。
ついで、おのれの愚かさに頬肉を噛む。
(あぁ。さらって……さらえたとして、彼女が俺を見てくれると、どうして思えたんだろう)
身を焦がすこの想いは、無垢な彼女にとって、重荷でしかないだろうに。
「……出すぎた真似を、いたしました」
「いいですよ。爽が悪い子じゃないって、わたしは知ってますからね」
先ほどまでの殺気はどこへやら。にっこりとほほ笑んだ憂炎は、「さてと」と声をあげたのち──瞬時に半身をとり、袖をふった。
──ばりばりばりぃっ!
薄暗い路地裏で放たれた蒼炎に、
まばゆい光が爆ぜるまで、一瞬のこと。
炎と雷。拮抗する内功の衝突。
「──彼女を離せ。いますぐに、だ」
柘榴色の瞳を細めた憂炎の目前に、ひとつの影がそびえ立つ。
風になびく漆黒の艶髪、怒りにたぎる薔薇輝石の双眸をもつ少年が。
「俺がいきます」
「爽」
すぐさま前に出る爽を、憂炎は名を呼ぶことで制止する。
あちらからすれば、薄暗い路地裏、男がふたりがかりで、か弱い少女に迫っている構図だ。
「もしかしてわたしたち、悪者です?」
ひとつため息をついた憂炎は、早梅を胸にかばいながら、依然として殺気を寄こす少年へ向き直る。
「
平和的にね、とほほ笑んでみせて。
* * *
頭上を流れる雲が、茜に染まっている。
昼下がりに早梅が街へくり出してから、ずいぶんと時間がたっていたようだ。
(どうしたもんかなぁ……たすけて、|黒慧《ヘイフゥイ》)
西に沈みゆく太陽を見上げ、早梅は胸中で切実に懇願する。きこえるわけがないと、わかってはいても。
ちなみに、とほうに暮れる早梅の右手を引くのは、にこにこと笑みをくずさない憂炎。
かたや左手を引くのは、鉄壁の仏頂面をうかべた
あのあと。早梅を追って路地裏に駆けつけた暗珠と憂炎によるひと悶着は、諸々あってなんとかおさまった。
が、両者ともに『女性をひとりで帰すわけにはいかない紳士論』のもち主らしく、早梅を送ると主張してゆずらない。
その結果、現状にいたったわけである。道中、暗珠は無言であり、憂炎もにこやかながら、早梅にしか話しかけてはこなかった。
ふられたのはとりとめのない話題だが、「うん、うん……そうだね」と相づちを打つのでせいいっぱいだった早梅である。
暗珠のそれとない道案内により、無事屋敷へ戻ることが叶ったが、門前でのこと。
「……俺は、こちらでお待ちしております」
おもむろに口をひらいたのは、それまで息を殺し、影のごとく三歩後ろで付き従っていた爽だ。
早梅がふり返れば、その表情は太陽に雲がかかったかのごとく、翳っている。
なにが爽にそう言わせたのか、早梅にはわかった。想像できたからこそ、こう語りかけるのだ。
「爽も来て」
「……いいえ、俺はいけません」
「夜まであっという間だよ。外で待っていても、子烏ちゃんたちが凍えてしまうだけだよ」
早梅はあくまで、爽が腕に抱く烏たちのためだとうそぶいてみせる。
「……あなたは、ずるいです。そんなふうに言われたら……」
夜色の瞳がゆらめく。うつむき、葛藤する爽のすがたを見つめると、あぁ、彼は心根がやさしいんだな、と早梅の胸に熱がともった。
「──
そんな黄昏の静けさに、よく通る声がひびきわたる。