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第154話 闇を爪弾く【前】

 きょうのおやつは胡麻団子だ。

 早梅はやめは揚げたての香ばしい香りに胸をおどらせながら、盆を片手に、北向きに面したへやの扉を叩く。そこまではよかった。


梅雪メイシェ……おまえは、ほんとうにもう……!」

「あはは……くるしいです、お父さま」


 離れの一室をおとずれた早梅は、気づけば桃英タオインの腕の中だった。入室早々、腕をさらわれたのである。

 落としかけた盆は黒皇ヘイファンによって華麗に回収され、胡麻団子もお茶も健在。

 手持ち無沙汰になってしまえば、おとなしく桃英に抱かれるよりほかない。


「突然蓮虎リェンフーをつれてきた黒皇が室から出るなというから、何事かと思えば……皇室の関係者がおとずれただと? なにもされていないのだろうな……!」

「私はこのとおり元気いっぱいですよ。ご安心ください!」


 ──屋敷を訪問したのは、皇子殿下である。


 その正体がクラマだとまだ知らぬ早梅は、すぐさま黒皇を呼び、寝室で寝かせていたわが子を託して父のもとへ向かわせた。

 滅亡したはずのザオ家当主らの生存を、いるはずのない第二皇子の存在を、決して知られてはならなかったためだ。

 むろん、愛娘がじぶんたちをかばい、みずから矢面に立っていると察した桃英の胸中は、おだやかではなかった。


「家族を守ることは家長のつとめ。それが黙って指をくわえているしかないとは……なんと口惜しいことか」

桃桃タオタオ、おまえさんの気持ちもわからいでか、桜桜ヨウヨウ蓮蓮リェンリェンもいんだ。カッとなって飛び出してこなくて大正解だよ」


 奥歯を噛む桃英へ言葉をかけたのは、頃合いを見て駆けつけた晴風チンフォン。彼はつい先ほどまで、この屋敷のあるじである一心イーシンとともに『客人』の対応をしていた。


「聞かん坊の困った小僧だったが、梅梅メイメイにうまいこと丸め込まれて帰ってったよ。ひとまずは心配すんな」

「……お祖父様がおっしゃるならば」


 白い歯をにっとのぞかせた、見慣れた笑み。いつもの晴風らしい様子に桃英は落ち着きを取り戻し、早梅も安堵する。


小蓮シャオリェンをあずかっていただいて、ありがとうございます。変わりはございませんでしたか?」


 何気ない言葉のつもりだったが、視界の端で、眉間にしわを刻む桃英のすがたをとらえる。


「その蓮虎のことだが……すまない、梅雪」

「……お父さま?」


 深刻な桃英の面持ちに、尋常ではない空気を察したのもつかの間。


「私がすこし目を離したすきに、蓮虎は──」


 重々しく口をひらく桃英から、はじかれたように視線をはずす。


「小蓮……小蓮!」


 どこだ。どこにいるのだ。

 わが子は、蓮虎は──


「……じ、じ、じ」


 首をめぐらせ、室を見わたしたさきに、いた。

 卓のそば。椅子の足をぷくぷくとしたちいさな手でにぎって、


「へっ……」

「一瞬のことだったんだ……私が目を離した一瞬のすきに、蓮虎は、つかまり立ちができるようになっていた……その上」

「じ、じ……じぃじ、じぃじ!」

「私のことを、『おじいちゃん』と理解して……なんと賢い子だろうっ……」


 めったに感情を乱さない桃英が泣きそうになって、というか実際に瑠璃の瞳をにじませながら、袖で顔を覆う。

 深刻な顔をしているから、何事かと思えば。


「うちの子が立ったぁあああっ!」


 早梅、絶叫のちに発狂。

 これにて胸さわぎは杞憂に終わったのだが、現状を把握した早梅の情緒はせわしなかった。


「えっ、ほんとに立ってる、えっすごい、すごいすごいすごい! ねぇ小蓮、私のことも呼んでごらん、『まぁま』って、ほらっ!」

「ま? ま?」

「いやぁああ! うちの子が言語をしゃべっている、天才かぁああ!!」


 言語というより、単語にも満たない音の羅列だが、そんなことはどうでもいい早梅だった。

 ハイハイするのもすぐに疲れては、愚図って寝てしまう蓮虎が、立ってしゃべっている。そのことが、なによりも尊いからである。


「蓮蓮! 俺もおじいちゃんだぞ! 『おおじぃじ』って言ってみな!」

「ふ、ふぁ……ふぁん、ふぁん」

「ちがぁうっ! それは黒皇っ!」

「お呼びでしょうか、おぼっちゃま」

「かぁ、かぁ!」

「はい、黒皇は烏です。かぁかぁ」


 じぶんを呼ばせようとして見事玉砕している晴風。

 慣れた様子で赤ん坊の相手をしている黒皇。

『じぃじ』呼びされ涙ぐんでいる桃英。


「うちの子かわいすぎて誘拐されちゃわない? 大丈夫?」


 なにより、素でそんな心配をする早梅が、一番の親ばかだった。


「うわー、ほほ笑ましいなぁ。そんでもってすこぶる入りづらい」

「おや、単細胞のくせに空気を読むなんていう芸当ができたのか」

「てめぇこのやろう! 表出ろやぁ!」


 そうこうしていると、室の入り口のほうから騒がしい声がとどく。

 見れば黒とキジトラのマオ族の青年らが、仲良く口論をくり広げているところだった。


「あら、六夜リゥイさま、五音ウーオンさま! どうなされました?」

「ご機嫌うるわしゅう、梅雪さま」

「変わり身のはやいやつめ……よっ、梅雪ちゃん、さっきぶり。一心さまから伝言をあずかってきたぜ」


 煽るだけ煽った五音に舌打ちをもらした六夜は、早梅へ向き直ると、気を取り直してにこやかな笑みを浮かべてみせる。


「『ちょっと留守にします。夕刻までには戻りますので、夕餉の席でお話をしましょう。桃英さまもいっしょに』──だってよ」


 これにぴくりと反応を見せたのは、思わぬ場面で名を呼ばれた桃英だ。

 寝たきりの桜雨ヨウユイをひとりきりにはできないと、早梅たちとは別に、食事はこの室でとっていたのだが。


 そんな中、桃英をまじえた食事の席を、このタイミングで一心がもうけた。それはつまり。


「梅雪さまに接触をはかった皇子のことも含め、今後について、一心さまよりお話がございます」


 五音のひと言が、にわかに、緊張をもたらした。

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