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第145話 疾風迅雷【後】

黒皇ヘイファン!」


 ──早梅はやめさまには近づけさせません。


 あの黒皇が、これほどの気迫をまとってだれかを牽制するすがたを、早梅ははじめて目の当たりにする。

 烏になってまで、空から必死にさがしてくれていたのだ。必死だったからこそ、こんなにも激情をたぎらせているのだ。


「あぁ、見つかっちゃったか。さすがに六夜リゥイたちよりはやかったね、黒皇」

「──」

「うん、僕が悪いのはわかってるから、真顔でつつくのはやめてくれないかな……いたたた!」


 さらに雑踏のあいだを縫って、一心イーシンも駆けつける。その脳天を、するどいくちばしによる攻撃が襲う。

 早梅を連れ去った一心に、心底反感があると見えた。


「へいふぁ~ん! 待ってたよ~!」


 早梅がピンチのときに颯爽と駆けつけるのは、決まって黒皇である。

 その信頼に今回も見事応えてくれた愛烏まなからすへ、感極まって両腕をひろげる。

 ばさりとひとつ羽ばたいた烏が、早梅の腕の中へすっぽりとおさまった。

 ふわりと手ざわりがよく、太陽の香りがする羽毛をなでるひとときは、早梅にとって至福の時間である。


「心配させちゃったよね。ごめんねぇ」


 ──いいえ。一心さまのせいなので、早梅さまは悪くありません。それより、旦那さま方が心配しておられます。


「それはたいへんだ! はやく帰ろうね! 小蓮シャオリェンもさびしくて泣いてるかもだし!」


 ──それがよろしいかと。黒皇がついておりますので、まいりましょうか。


「ありがとう!」


 黄金の瞳と見つめ合ったなら、言葉を交わさずとも意思疎通ができる。これぞ以心伝心である。


「そういうわけなので、このへんで!」

「ちょっと待っ──」


 少年がなおも引きとめようとすることは、想定済みだった。


「──ッ!」


 しかしながら、少年の手がとどくことはない。

 びくりと肩を跳ねさせて硬直した異変を横目にとらえながらも、早梅は足をとめない。


「おだいじに〜!」


 ──なんだかよくない予感がする。

 そう警鐘を鳴らす胸中とは裏腹に、天真爛漫に雑踏へ飛び込む早梅であった。



  *  *  *



 独り取り残された往来で虚空を睨みつけ、どれほどたったか。


「こちらにいらっしゃいましたか、殿下!」


 背後から駆け寄る人の気配がある。これに少年は、嘆息を返した。


「だれが聞き耳を立てているとも知れぬ場で、その呼び方はやめろと言ったはずだ」

「は……たいへん失礼いたしました、公子こうし


 つと視線だけで後ろを見やれば、丁寧に髭を切りそろえた壮年の男が、深々と頭を垂れている。

『お忍び』のため、こちらも外套をまとって詳細な容貌を隠している。

 自身よりはるかな若輩者に追従するこの男こそ、陽北ようほく貴泉きせん郡をあずかるチェン太守たいしゅだというのだから、結構なことだ。


燈角とうかくは治安のよい街だと聞きおよんだが、私の思いちがいだったか?」

「……よりいっそう警備を強化いたします」


 到着早々、悲鳴を聞きつけ、単独行動に走ったのはじぶんだ。

 陳太守がここへ至るまでに時間を要したのも、窃盗事件の対応に追われていたため。

 わかっているのだ。じぶんが『困った人間』であることは。


 だが、甘ったるい嘘と欲にまみれた後宮しか知らないじぶんにとって、他人にこころを許すという行為は容易なものではない。

 そう、少年──羅暗珠ルオアンジュにとっては。


「今日はもう、やすむ」

「では、船をご用意しましょうか」

徒歩かちでいい。先にゆけ」

「かしこまりまして。離宮へご案内いたします」


 船を使わないとなれば、これから十数分は歩くことになるだろうが、それでもかまわない。

『たしかめたいこと』もある。


(──どこだ)


 暗珠は陳太守のあとに続きつつ、注意深く往来へ視線を走らせる。

 先ほど『彼女』を引きとめようとしたとき、尋常でない殺気を感じた。

 突然割り込んできた烏ではない。『彼女』へ馴れ馴れしくふれていた男のものともちがう。


(明確な意志をもって、俺を殺そうとしていた何者かがいる)


 少なくともいまは、すがたをあらわすつもりがないらしい。実態のさだかでない存在を追うなど、煙をつかむようなものだ。

 だが、火のない場所に煙は立たない。


(殺したいなら好きにすればいいさ。その代わり、俺も容赦はしない。おまえのせいで……彼女を逃がしてしまった)


 そのことが、暗珠はなによりも腹立たしかった。


(男装までして、そんなに後宮と……皇室と関わりたくなかったんですか、ハヤメさん)


 うまく変装していても、暗珠の目はごまかせなかった。


(いっしょにいた男はだれですか。俺のいないところで、なんであんなに楽しそうにわらってたんですか……俺にはあなただけだったのに、あなたはちがったんですね)


 ──俺がどんな気持ちでさがしていたのか、あなたは知らないだろう。

 ──あなたと再会を果たしたとき、俺のこころがどんなにふるえたのか、あなたは知らないだろう。


 やるせなさ。憤り。愛しさ。

 さまざまな感情でないまぜになって、暗珠は唇を噛む。


「ぜったいに、むかえに行きます」


 この街にいるのだから。


「目を覚まさせてやりますよ。あなたの味方は、俺だけだって」


 手を伸ばせばとどく距離に、いるのだから。

 つつみ紙のなかの飴玉を手のひらでにぎしりめるうちに、吐き気など、とうに失せていた。

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