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第141話 野良の本懐【前】

 早梅はやめは大衆の目からそそくさと逃げるように、往来から脇道へ駆け込む。

 人ひとり通るのがやっとなか細い路地裏を、道なりに突き進む。

 やがて視界がひらけ、小川のながれる閑静な場所へとたどり着いた。


 ぐるりと見わたした早梅は、腰を落ち着けるのに手頃な段差を指さす。


一心イーシンさま、あそこでちょっと座って待っててくれませんか?」

「……」


 目の届かない遠くへ行くわけでもないのに、一心は早梅の右手を離そうとしない。

 むしろ指を絡め、頑として拒否を示す始末。


「うぅ……いっしょに行きましょうね」


 根負けした早梅は、一心と手をつないだまま、ゆるやかな河川敷をくだる。

 浅瀬のほうへやってくると、懐から手巾ハンカチを取り出し、小川のせせらぎに浸す。

 慣れない左手でなんとか絞り、冷えた布を、泣き腫らした一心の目もとへあてがった。


「よいしょっと……冷やしとかないと、たいへんですからね」


 ぽんぽん、と目もとをぬぐわれ、ようやく早梅の行動を理解したらしい一心が、絡めた指をほどく。

 代わりに、ぎゅううっと早梅を抱きしめ、その胸に顔をうずめた。


「わっと! 一心さま、大丈夫ですか?」

「……大丈夫ではないです」


 ひとしきり本音を吐露して、すこしは落ち着いたのだろうか。声音は硬いが、ふだんの一心の口調だ。


「……お見苦しいところをお見せしました。あんな情けないところ、あなただけには、知られたくなかった」

「一心さま……」

「でも、止められなかった。あなたを愛しく想う気持ちが洪水のようにあふれて、貪欲で意地汚い僕のすがたを、知られてしまった……」


 一心さまは、べつに私のことなんか、好きじゃないですよね。


 無知なひと言が、一心のなにかを壊した。

 それは一心が必死に堪えてきたものであり、ひた隠しにしてきたもの。


「好きです……ほんとうに、好きなんです。あなたが……君が」


 感嘆のような告白が、胸を締めつける。

 その言葉は、一心のこころそのものだ。


「ずっと君のことを想っていた。君以外のだれかを恋人にするなんて、考えられなかった。君ひとりに執着して、君がほかの男といると妬ましくて、はらわたが煮えくり返りそうで……そう、僕は異常なんです。えがおの裏で、君を独占することばかり考えていました。いっそのこと抱いてしまえばいいとさえ」


 だれかひとりを愛する。なるほど、一心はたしかに、マオ族としては異常な存在だったろう。


「……私のなにが、一心さまにそこまでさせたのでしょうか?」


 早梅は一か八か、大きな一歩をふみ込む。

 はは、と、一心の力ないわらいがひびいた。


「……猫族の長になったのはここ数年のことで、それまでの僕は、各地を放浪していました。荒くれ者の野良。当時の僕は一族からも嫌われており、どこにも居場所がありませんでした」

「一心さまが……?」


 とてもそうは見えない、と目を白黒させる早梅の胸もとから顔をあげ、一心は自嘲気味にわらう。


「あてもなくさまよって、そのうちに、生きる意味さえ見失ってしまいました。だれからも愛されないなら、もう終わりにしようと。その日は雪が降っていたから、ただ身をまかせていれば、楽になれる……そう思っていたんです」


 でも、ちがった。


「凍え死ぬ寸前の野良猫を、おさない女の子が……君が、ひろってくれたんです」


 そういって早梅を映し出した琥珀の瞳は、それまでの頼りないものではない、たしかな輝きがやどっている。


「問答無用でお湯をぶっかけられて、危うく溺れ死ぬかと思いました」

「それは……ゴメンナサイ」


 桃英タオインをして「おてんば」と言わしめる梅雪メイシェだ。やりかねない。


「嫌がる猫を無理やり洗おうとするし、何度引っ掻かれてもめげないし、ほんとうに……君はおせっかいで、愛情深かった……」


 訥々とつとつと語る一心の声が、ふるえる。


「君は僕が凍えないように、抱きしめてくれました。君の体温は、あたたかかった……僕がずっと欲していたものを、愛情を、君がくれたんです。だから僕が君に恋をするのは、当然だった。十一年前のことです」

「十一年前……」


 梅雪が七歳のときだ。


「待って……一目惚れって、そのときのことなんですか?」

「はい。君の愛情にふれて、イチコロでしたね」

「あの、十一年前というと、私もだいぶおさなかったのですが」

「わかっています。僕の片想いだって」

「いやいやいや……」


 それはそうなのだが、そうじゃない。


「一心さまって、もしかして……幼女趣味?」

「ちがいますね。恋をした相手が幼女だっただけです」

「おぉうふ……」


 それを幼女趣味ロリコンっていうんだよ。

 と思わなくもない早梅だったが、根性で飲み込んだ。

 これ以上掘り下げたら、困るのはじぶんなので。


「君にひとときでも愛された僕は、愚かにもまた君を求めてしまった……君にはもう、飼い猫がいたのに」

「あ……」


 紫月ズーユェのことだ。

 まだ、彼が飼い猫だったころ。

 十一年前、梅雪が七歳のとき。

 そのとき、ザオ家を震撼させた出来事がある。

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