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第140話 猫の誘惑【後】

「あぁ、そうだ。ひとつ言いわすれていたことがありました」


 打って変わったように、朗らかな声をあげる一心イーシン

 なにを、と問おうとする早梅はやめの唇に、やわらかいものがふれる。


「……んっ!?」


 気づけば、道端の石壁に背を押しつけられていた。

 若草色の袖につつまれ、長身の男の影にすっぽりとおおわれた早梅から、往来をゆく人々のすがたと喧騒が薄れてゆく。


「一心さ……ふぁ、んんっ……」


 しっとりと吸いつくような口づけが、立て続けに。早梅の呼吸を乱す、深い深いものだった。


「はっ……ふふ、口紅をとりたかっただけなのですが」


 舌と舌をつなぐ銀糸がぷつりと切れ、ほのかな桃色に色づいた自身の唇を、赤い舌で舐めとる一心。

 薄化粧とはいえ、紅をさしていたことをわすれていた早梅の失態だ。それにしたって、こんな。


「おや、今度はこちらに紅がさしましたね。お可愛らしい」


 濡れそぼった早梅の唇を親指でなぞった一心が、するりと指先でくすぐるように、ほほをつつみ込む。


梅雪メイシェさん、僕も、あなたに婚姻を申し込んだ男ですよ?」


 かぷり、と一心に口唇を食まれる。思いのほか犬歯がするどく、わずかな痛みをともなう。

 いつも慈愛に満ちたまなざしを浮かべていた琥珀の瞳が、いまはじりじりと欲を燻らせていて。


「梅雪さん……」

「っ……!」


 なおもふれようとする唇を、早梅はとっさにかわした。

 が、顔をそむけたばかりに、れろり、と耳を舐め上げられてしまう。


「ひゃあっ……!」

「ふふ、可愛いひと……こんなにいじらしいあなたを、黒皇ヘイファンは独り占めしているのですか。妬けるなぁ」


 耳朶に吹き込まれる吐息が、熱い。

 胸を押し返そうとした手首をさらわれ、正面を向かされた矢先に、こつりとひたいをくっつけられる。


「ねぇ梅雪さん。きょうは『危険日』ですね?」

「……なに、を、いって」

「僕たちマオ族の男はね、毎朝こうやって女性の体温と脈をはかって、月のものの周期を確認するんです」


 優しすぎるほどおだやかな一心の声音が、早梅の鼓膜をふるわせる。

 間近にせまった吐息の熱が、思考をうばった。


「今夜抱いたら、赤ちゃんができてしまいますね?」


 決定的な言葉だった。

 一心が、欲情しているという。


「セクハラ、ですよ」

「おや、それはどういった?」

「褒め言葉ではないです」

「残念です」


 にこにこと、一心の笑みはゆるがない。

 琥珀の瞳の奥には、底知れないなにかがある。


 いっそ発狂できたなら楽だったろうに、一心の『本性』を目の当たりにした早梅は、自然と冷静に、俯瞰的に物事を見つめることができた。


「一心さまは、べつに私のことなんか、好きじゃないですよね」

「……心外ですね。なぜそう思われるのです?」

「なんていうか、『ほとばしる熱』が感じられないっていうか……フォンおじいさまじゃないですけど」


 を言語化するのはむずかしい。

 ただ、ひとつわかったことがあるとするなら。


「一心さまが私と結婚したいのは、猫族のためですよね。こどもを生んでくれる女性は、貴重だから」


 猫族は極端に女性がすくない。

 獣人に好意を示す人間はめずらしいから、早梅のような存在は、まさに猫族にとって救世主だったろう。

 それでも、早梅には早梅の感情がある。


「一心さまにも、いろんな事情があるんだと思います。でも、このままなし崩し的に結婚しても、幸せになれませんよ。私も、一心さまも」


 こころを鬼にして、告げる。


「使命感とかなしにして、私、一心さまには、こころから笑ってほしいです」


 そのために、一線は越えさせないと。


 ながいながい沈黙が、あたりをつつみ込む。

 やがて空気をふるわせたのは、可笑しげな男の声だった。


「……なにを言い出すのかと思えば……っくく」

「一心さま?」

「僕の気持ちも知らずに残酷なことだ! あはははっ!」

「いッ……!?」


 高らかと、壊れたようにわらい声をあげる一心。

 ぎりぎりと、握りしめられた早梅の手首の骨がきしむ。


「僕がこれまでどうして妻をむかえ入れなかったか、教えてあげようか」


 この男は、だれだ。

 一心の顔と声をした、まったくの別人ではないか。

 けれども混乱する早梅のために、時は止まってなどくれない。


「一目惚れだったと言っただろう? あれはうそでも、冗談でもない」


 あぁでも、と続ける声音は、愉悦にふるえている。


「いつ一目惚れしたかは、教えていなかったね?」

「……そ、れは、どういう」

「僕と君はずっとむかしに出会ったことがある。『あの日』から、僕はずっとずっと君の虜で……君に恋をしていた」


 まったく身におぼえがない。

 一心は、なにを言っている?


「けれど僕は、君を想うあまり、罪をおかした。決してゆるされぬ大罪だ。愛するひとを傷つけるなら、愛することをやめよう。君の前から消えて、孤独のまま朽ち果ててもかまわないと、それが贖罪しょくざいなのだと言い聞かせていたのに……君はまた、僕のもとにやってきた……その声を、そのえがおを向けられたら、どうにもならないじゃないか! 僕の覚悟なんて簡単に砕いて、押し込めた僕の欲を無邪気に刺激して!」


 矢継ぎ早に言葉を発する一心の声音が、ふるえる。


「『熱が感じられない』? そうだろうね。この気持ちを必死に抑えていたんだから。また君を壊してしまわないように、猫をかぶっていたんだから!」


 一心は三毛をふり乱しながら、半狂乱になって叫ぶ。


「この想いを知られてしまったなら! 僕のこころを暴いたなら! 僕のものになってよ! そばにいて、僕を愛してよ!!」


 琥珀の双眸から、とめどない雫があふれている。

 それは、魂の叫びだった。


「僕は君を、君だけを、だれよりも愛すから……おねがい……っ」


 壊したくないと言いながら、骨がきしむほどに抱きすくめる一心が、なにを背負っているのか。早梅には、わからないけれど。


(私が拒絶したら、彼はきっと、壊れてしまう)


 その直感が、早梅に重い口をひらかせた。


「あの……ごめんなさい。なに言ってるのか、ちょっとよくわからないです」

「っ……そん、なぁ!」

「あああ待って待って、最後まできいてください!」


 くしゃり、と悲痛に顔をゆがめられたので、早梅は大慌てで補足する。嗚咽をもらす一心の背をさすりながら、あわあわと。


「ここまでの人生いろいろいろいろありまして、それこそショッキング……衝撃的事件の満開全席で、なんていうかその、私、記憶がトんじゃってるとこがあるんですよね」


 うそは言っていない。梅雪への憑依は衝撃的だったし、記憶の引き継ぎがうまくおこなわれなかったのも事実だし。

 つまり一心が『面識がある』と言い張っているのは、早梅もすぐに記憶を取り出せない梅雪のことなのだろう。


「『一心さまが私のこと好きじゃない』みたいなことを言ったのは、完全に失言でした。謝罪します。ほんとうにごめんなさい」


 こちらの肩へもたれるようにうなだれた一心の表情は、よく見えない。

 沈黙する彼は、なにを思っているだろう。


「一心さまのお気持ちはわかったので、すんごい伝わってきたので、えと、こんなこと言うのは申し訳ないですけど、お話がしたいです。ちゃんと整理をして、お返事がしたいです……って感じの気持ちはあるので、その」


 しばしどもる早梅だったが、腹を決め、勢いよく挙手をする。


「とりあえず、落ち着いて話ができるところに行きませんか!?」


 おわすれだろうが、ここは往来。そう、たくさんの人が行き交う道端なのである。


「なんだなんだ?」「痴話喧嘩?」と集まりつつある野次馬。

 その好奇の目を一身に受け、羞恥で涙がちょちょぎれそうな早梅の心情など、一心は知るよしもないだろう。

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