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第125話 都合のいい夢【後】

梅雪メイシェさん、きのうのお話、考えてくださいましたか?」


 露骨な圧力をかけられているというのに、よりにもよってその話題をにこにこともち出す一心イーシンは、相当強靭なメンタルのもち主であることがわかる。


「光栄なお話なのですが、どなたかと結婚までは、考えられなくて」

「さしつかえなければ、理由をお訊きしても?」

「……蓮虎リェンフーの父親が救いようのないクソ野郎で、まだ傷心中といいますか」


 悔しいが、飛龍フェイロンのせいで臆病になっていることは、ほんとうだ。

 彼のこどもを生んだ。その事実は、どこへ行こうとも付きまとう。

 早梅はやめも、出産したことに後悔はない。ただ。


(私が成そうとしていることは、|小蓮《シャオリェン》から、父親を奪うこととおなじだ)


 わが子を前にして、飛龍がなにを思うのか。

 早梅わたしを愛していると言うのなら、この子はどうなのか。


 殺したいほどの憎悪より、そう問いただしたい感情が先行していることに、早梅は人知れず困惑していた。


「だれだって悩んで、迷うものです。僕だってそうです」


 唇を噛んだ早梅の肩を、ふわりと若草色の袖がつつみ込む。

 条件反射で抗議しかけた晴風チンフォンも、思わず口をつぐむ。

 早梅を見つめる一心の琥珀の瞳が、あふれんばかりの慈愛に満ちていたからだ。


「悩んで悩んで、その末に決めた答えなら、それがあなたにとっての正解だと思いますよ。だから、焦らずにゆっくり考えましょう。大丈夫」

「一心さま……お優しすぎませんか?」

「下心はあります。梅雪さんのことが好きなので」

「おれもー!」

「ぼくのほうがすきだもんー!」

「わわ!」


 一心が冗談めかすと、おさない少年たちまで声をあげる。

 一心に肩を抱かれ、八藍バーラン九詩ジゥシーに左右から抱きつかれたら、これは。


「猫まみれになってしまった」

「猫は甘え上手ですからね」


「もうひとつ、いいことを教えてあげましょうか」──一心はそういって、どこかいたずらっぽくはにかむ。


「僕たちは、甘やかし上手でもあるんです。梅雪さんを歓迎する準備は万端なので、どうぞ思いっきり飛び込んできてください」


 仮に早梅がそのとおりにしたら、一心は両腕いっぱいに抱きとめてくれるだろう。そう確信できるほどの、やさしいほほ笑みだった。

「もちろん、下心はありますけど」とわざわざ付け加えられるものだから、憎めそうもない。


「……ありがとう、ございます」


 たっぷりの沈黙をへて、早梅がやっと絞り出せたのは、震える声だった。


 一心の好意には感謝している。こみ上げてくる熱いものをこらえるのに必死で、こどもたちの前で泣いていられないと、しょうもないプライドがはたらいた。ただそれだけのことだ。


 泣きそうになりながら笑う早梅を目にして、それだけでも満足と、一心は琥珀の瞳を細め、翡翠色の髪へ指先をとおす。


(……やっちまった)


 完全に発言の機会をうしなってしまった晴風は、斜め上空を見上げながら閉口した。


 人の機微にさとい晴風だからこそ、いまの一心に口で言うほどの下心がないことも、なんとなく感じ取れてしまったのだ。

 ここで無理やりあいだに入ろうものなら、『ただの空気読めない人』になってしまう。最悪「フォンおじいさまきらい!」と言われかねない。


 いっそ愚図ってくれれば、早梅の意識がこちらへ向くだろうに、肝心の蓮虎はすぴすぴと眠りこけている。そうだね、寝る子は育つね。ちくしょう。晴風は人知れず荒ぶっていた。


「──お嬢さま!」


 慌ただしい足音が聞こえたのは、そんなときである。

 この場に女子はひとりしかいないし、早梅を「お嬢さま」と呼ぶ人物も、ひとりしかいない。


黒皇ヘイファン……? どうしたの、そんなにあわてて」


 めったなことでは取り乱さない黒皇が、声を張り上げ、屋敷の向こうから猛然と駆けてくるさまに、早梅は少なくない困惑をおぼえる。

 それは晴風も同様だった。おなじく「なになに?」と小首をかしげる八藍や九詩たちをよそに、一心だけが、笑みをくずさなかった。


「お嬢さま……」


 あと数歩のところまでやってきた黒皇が、何事かを言いかけて、唇を噛みしめる。

 黄金の隻眼はいまにも泣きそうで、なにか大変なことが起きていることは明白だった。


 にわかに走る緊張。

 なにがあったの、と早梅がふたたび問うより先に、呼ばれる名前があった。


「……梅雪か?」


 刹那、早梅は頭を殴られたような衝撃を受ける。

 早梅を呼んだのは、晴風とよく似た──いや、まったくおなじ声音。

 だけれどちがう。そうではないのだ。晴風だって、ひどくおどろいた顔をしているのだから。

 声の主は、晴風ではない。だが。


「梅雪、なのか?」


 黙り込んだ黒皇が、そっとその場を退く。

 そこに、いたのは。

 黒皇と同様に、息を切らせながら駆けてきたのは。


「……おとう、さま?」


 翡翠の髪に、瑠璃の瞳。晴風よりもおとなびた、まったくおなじ外見の男性が、立ちすくんでいる。

 記憶の中の父──桃英タオインにちがいなかった。


「っ……梅雪、あぁ梅雪、よかった!」


 茫然自失におちいった早梅は、まばたきのうちに腕をさらわれる。

 気づいたときには、きつい抱擁のさなかだった。


「私の可愛い娘……無事で、よかった……っ」


 桃英が、父がここにいる。


 これが都合のいい夢なのだとしたら、あぁ。

 どうしてこんなにも、抱きしめられて、痛いのだろう。


「……幽霊……?」

「ばかなことを言わないでくれ」


 背中にまわった腕が、より強く早梅をいだく。

 押しつけられた胸もとが、トクトクと、駆け足に鼓動している。

 きぬ越しに伝わるぬくもりも、あたたかなものだった。


「お父さま……なんですか」

「……あぁ」


 感嘆するように、返事がある。


「私はここだ」


 力強い言葉に、もう、否定しようもなかった。


 ──父が目の前にいる。生きている、と。

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