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第118話 水郷につどう【後】

「ところで、その旭月シューユェのすがたが見当たりませんが、まだ戻っていないのですね?」


 その問いの意味を、早梅はやめはすぐに理解することができなかった。

『こちらの事情』については、ある程度事前に伝えていると黒皇ヘイファンは言っていた。

 しかし首をかしげる一心イーシンの表情は、素朴な疑問を投げかけているときのものだ。


「まったくあの子は、どこをほっつき歩いているのやら」


 ──と、信じて疑わないものだ。


(彼は……知らないのか)


 伝えなければ。そうしなければいけないと頭ではわかっているのに、重い口が動いてくれない。


「大丈夫ですよ、梅雪メイシェさん。旭月なら、そのうちふらっと帰ってきますから」

「……そうですね、ありがとうございます」


 一心がどこまで心情を汲み取ってくれたのかはわからないが、純粋な励ましの気持ちは伝わってきた。

 うつむいていた早梅も顔を上げ、ほほ笑みを返した。


「さて、本題に入りましょうか」


 一心はにこやかな表情を引きしめると、手を組み、厳かに言葉をつむぐ。


「近年われわれ獣人の立場は、坂を転げ落ちるように悪化の一途をたどっています。というのも、二年前に翠海すいかいのとある街が、壊滅的な大火災にみまわれたことが関係しています」

「……深谷しんこく、ですね」

「えぇ。あなた方が間一髪で脱出した、あの街のことです」


 紫月ズーユェはあのとき、『獬幇かいほう』へ向かおうとしていた。早梅と憂炎ユーエンの保護のためだ。

 ならばマオ族の長であり、支部をまとめる一心が、深谷で起きたことの詳細を知らされていても不思議ではない。


「結論から言いますと、深谷の街を襲ったのは、獣人ということになっています」

「そんなばかな! あれは皇室の手の者によるものです! だって私は、あの男と……ルオ飛龍フェイロンと、一戦をまじえました」


 羅飛龍。それが時の皇帝をあらわす名であることなど、言わずと知れたことだ。


「えぇ。皇室の方は、われわれがたいそうお嫌いなようですからね。腹を空かせて街におりてきた獣が暴れたのだと、民心をたくみに操っているようです」

「下劣な……!」

「そうした経緯で、これまで以上に獣人への風当たりは強まっています。獣人のこどもが暴行を受けたり、貧しい獣人を奴隷として売買する闇市が活発化しています」

「立場の弱い者を虐げて、蹂躙するなんて……どちらがけだものだ……!」


 聞くにたえないとは、このことか。


「いたずらな争いは避けるべきですが、われわれとしても、黙って濡れ衣を着せられたままでいるわけにはいきません」


 声をあげる。そのときはすぐそこまで迫っていると、一心は語る。


「力を、蓄えなければなりません。梅雪さんにも、ぜひ協力をしていただきたいのです」

「よろしいのですか? 私も人間には違いありません」

「人だから、獣だから。そんなことにいつまでもこだわっていては、この不毛な争いは永遠に終わりません。僕はね梅雪さん、人であるあなたが、僕らの立場になって憤ってくれている。それが嬉しいのです。僕らが闘う相手は『人』ではありません。『悪』なのです」


 罪を憎んで、人を憎まず。

 なるほど、どこまでも先を見据えた聡いまなざしは、一心をたしかに猫族の長たらしめるものだろう。


「難しいことを言っているようですが、まぁつまり、家族も同然な旭月のたいせつな妹さんなんですから、たいせつにするのは当然、ということです」

「一心さま……」

「あらためまして。猫族は、あなた方を歓迎いたします」


 椅子から腰を上げ、差し出される手。

 早梅は目頭に熱いものがこみ上げるのを感じながら、同様にして応える。

 一心の手をにぎり返したとき、早梅を見つめる琥珀色の瞳が、ふわりと和らいだ。


「そうだ、梅雪さん。提案があるのですが」

「なんでしょうか。私にできることなら、お力添えさせてください」

「ふふ、そんなに難しいことではないので、安心してください」

「はい……?」


 首をひねる早梅。にこにこと笑みを深める一心。


「申し訳ありません、一心さま、お待ちを」


 何事かを察したらしい黒皇が、がたりと椅子を鳴らして立ち上がったが、遅かった。


「僕と結婚していただけませんか?」

「……んっ?」


 握手の姿勢のまま固まっていたなら、ぎゅっと一心に手をにぎられ。


「僕の花嫁さんになってくれませんか? 梅雪さん」


 追い討ちのひと言。

 早梅の視界の端では、黒皇が眉間に深いしわを寄せ、頭をかかえている。


「えっ、あの……はぃいっ!?」


 激しく意味がわからない早梅であった。

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