満月の夜には、なにかが起こるらしい。
自由に出歩くことをゆるされない青年にとっては、月の満ち欠けなど、知るよしもないが。
そう。月も空も、知らない。
太陽がどんなものだったかも、とうに忘れた。
終わりのない灰色の日々を、ただひたすらくり返すだけ。そう思っていたのに。
「──そんな
終わりは、突然だった。
* * *
「おぉ〜、お見事」
パチパチパチ、と拍手が反響する。
暗い暗い地下牢には、不釣り合いなものだ。
むせ返る鉄錆のにおい。冷たい石造りの格子に飛び散る、生温かいもの。
青年がべっとりとまとわりつくものを払えば、引きちぎられた手枷と足枷の鎖が、じゃらりと耳障りな音を立てた。
「……鎖を壊したのは、あなたですよね」
首をあらぬ方向へ曲げ、紅に染まりゆく
青年の前にはひとりの男がいた。月明かりのように白い髪をしていて、美しい笑みをほころばせる。
「えぇ、そうですよ。口がきけるんですね。最低限の礼儀もわきまえているようだ。そこに転がっているモノとは大間違い。ひょっとして、いいところの育ちだったり?」
「……さぁ」
人が死ぬ光景、殺される光景を目にして、何でもないように笑っているのだから。
「薄汚いですが、よくよく見れば整った顔立ちをしている。
にこやかな笑みを浮かべたまま、男が一歩、二歩と近づいてくる。
(敵か、味方か──いや、そんなことはどうでもいい)
考えている間に、生死など決まるのだから。
だから青年は、考えることを放棄した。硬くこころを閉ざしたまま、闇の中へ身を躍らせた、はずだったのに。
「愚かだなぁ」
「なっ──うぐっ、がッ!」
油断していたつもりなどなかった。
それなのに、息の根を止めようといち早く動いたはずのじぶんが、天地を見失い、地面へ叩きつけられたのだ。
肺を圧迫され、咳こめば、「おっと失敬」と言葉があって、青年にのしかかっていた男が退いた。
──殺されるかと。
男がその気だったなら、いまごろ命はなかっただろう。
(隙が、まったくない)
にこやかな笑みの奥に、それほどの殺気を秘めているのだ、この男は。
「名前はなんといいますか?」
「……忘れました」
「そうですか。じゃあ──シアンにしましょう。
奴隷としてあつかわれてきた青年に、名をつける真意はなんなのか。
「俺を……どうする、つもりで」
「どうだっていいでしょう? 髪の毛から爪先にいたるまで、おまえはもう、わたしのものなんですから」
そもそも男は何者で、なにを目的としているのか。
「獣人を奴隷として売買するのも笑えますけど、そればかりか賭け事のために殺しあわせて、娯楽の対象にするなんて、まぁよく考えるものだと思いません? 人間も」
「……」
「そんなものに踏みにじられる人生なんて、可笑しくなっちゃいますよね」
爽、と呼び声がある。
青年が肘をつき、上体を起こせば、差しのべられた男の手が目に入る。
「だから、ね。ぶち壊してやろうと思うんです。否やは言わせません。おまえを助けたのはわたし。おまえには、命を懸けてわたしに尽くす義務があります」
見返りのないほどこしなど、ない。
ゆえに、打算を隠しもしない提案は、かえって心地がよかった。
地獄を生きてきたのだから、いまさらどんな地獄に放り込まれようと、おなじだろう。
「ご主人さまのご尊名を、うかがっておりません」
差し出された手を取るさまを見つめる柘榴色の瞳が、満足げに細まった。
「
「教主さま……ということは」
「えぇ。おまえはこれからわたしの門下、
魔教とは、
「わたしにはちょっとした野望があるので、それを叶えるために、い〜っぱい働いてもらいますからね、爽?」
人当たりのよい好青年の物言いをしながら、憂炎は言外に問うている。
──踏みにじられたままでよいのか、と。
「教主さまの野望とは、なんですか」
憂炎がなにを見据え、おのれがどこへ導かれようとしているのか。それを知る権利くらいなら、あるだろう。
青年──爽の問いを受けて、憂炎はわらう。
「それはもう。『
美しくも危険な微笑だった。
憂炎に連れられ、爽は地下牢を抜け出す。
と、ふいのまばゆさに目がくらみ、爽は手のひらで影をつくった。
こわごわとまぶたをもち上げると、頭上は満天の星。そして。
「満月……」
真っ白な月が、漆黒の夜に浮かんでいた。
「久しぶりに、みました」
「そうですか。きれいなものでしょう」
「はい。……あの、教主さま」
「なんですか」
「月がしずんだら、朝陽も、見られるのでしょうか」
「ばかなことを言いますねぇ」
軽快な足取りで先をゆく憂炎が、ふと立ち止まり、爽を振り向く。
「夜でも、雨の日でも、雲の上には太陽があるんですよ」
「……そう、ですね」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
こころのやわいところをくすぐられたような、こそばゆい感覚をともなって。
「昇らない太陽は、ない……」
爽は名残惜しげに夜空を見上げ、つぶやく。
どこからか吹き抜けたそよ風が、歩み出した爽の黒髪を、そっとなでた。