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第112話 望月夜に

 満月の夜には、なにかが起こるらしい。

 自由に出歩くことをゆるされない青年にとっては、月の満ち欠けなど、知るよしもないが。


 そう。月も空も、知らない。

 太陽がどんなものだったかも、とうに忘れた。


 終わりのない灰色の日々を、ただひたすらくり返すだけ。そう思っていたのに。


「──そんな日々もの、ぶち壊しちゃいましょう?」


 終わりは、突然だった。



  *  *  *



「おぉ〜、お見事」


 パチパチパチ、と拍手が反響する。

 暗い暗い地下牢には、不釣り合いなものだ。


 むせ返る鉄錆のにおい。冷たい石造りの格子に飛び散る、生温かいもの。

 青年がべっとりとまとわりつくものを払えば、引きちぎられた手枷と足枷の鎖が、じゃらりと耳障りな音を立てた。


「……鎖を壊したのは、あなたですよね」


 首をあらぬ方向へ曲げ、紅に染まりゆく襤褸ぼろをまとった『見張りだったモノ』の死体から、青年は視線を上げる。

 青年の前にはひとりの男がいた。月明かりのように白い髪をしていて、美しい笑みをほころばせる。


「えぇ、そうですよ。口がきけるんですね。最低限の礼儀もわきまえているようだ。そこに転がっているモノとは大間違い。ひょっとして、いいところの育ちだったり?」

「……さぁ」


 にいる者はみな異常者だが、目の前の男も例外ではないだろう。

 人が死ぬ光景、殺される光景を目にして、何でもないように笑っているのだから。


「薄汚いですが、よくよく見れば整った顔立ちをしている。ラン族、マオ族……どの種族ともちがう、不思議なにおいですねぇ。まさか熊猫パンダとかじゃありませんよね?」


 にこやかな笑みを浮かべたまま、男が一歩、二歩と近づいてくる。


(敵か、味方か──いや、そんなことはどうでもいい)


 考えている間に、生死など決まるのだから。

 だから青年は、考えることを放棄した。硬くこころを閉ざしたまま、闇の中へ身を躍らせた、はずだったのに。


「愚かだなぁ」

「なっ──うぐっ、がッ!」


 油断していたつもりなどなかった。

 それなのに、息の根を止めようといち早く動いたはずのじぶんが、天地を見失い、地面へ叩きつけられたのだ。


 肺を圧迫され、咳こめば、「おっと失敬」と言葉があって、青年にのしかかっていた男が退いた。


 ──殺されるかと。

 男がその気だったなら、いまごろ命はなかっただろう。


(隙が、まったくない)


 にこやかな笑みの奥に、それほどの殺気を秘めているのだ、この男は。


「名前はなんといいますか?」

「……忘れました」

「そうですか。じゃあ──シアンにしましょう。シアン。それがたったいまから、おまえの名です」


 奴隷としてあつかわれてきた青年に、名をつける真意はなんなのか。


「俺を……どうする、つもりで」

「どうだっていいでしょう? 髪の毛から爪先にいたるまで、おまえはもう、わたしのものなんですから」


 そもそも男は何者で、なにを目的としているのか。


「獣人を奴隷として売買するのも笑えますけど、そればかりか賭け事のために殺しあわせて、娯楽の対象にするなんて、まぁよく考えるものだと思いません? 人間も」

「……」

「そんなものに踏みにじられる人生なんて、可笑しくなっちゃいますよね」


 爽、と呼び声がある。

 青年が肘をつき、上体を起こせば、差しのべられた男の手が目に入る。


「だから、ね。ぶち壊してやろうと思うんです。否やは言わせません。おまえを助けたのはわたし。おまえには、命を懸けてわたしに尽くす義務があります」


 見返りのないほどこしなど、ない。

 ゆえに、打算を隠しもしない提案は、かえって心地がよかった。


 地獄を生きてきたのだから、いまさらどんな地獄に放り込まれようと、おなじだろう。


「ご主人さまのご尊名を、うかがっておりません」


 差し出された手を取るさまを見つめる柘榴色の瞳が、満足げに細まった。


憂炎ユーエン。教主さまと呼んでもいいですよ」

「教主さま……ということは」

「えぇ。おまえはこれからわたしの門下、魔教まきょうの一員となるのです」


 魔教とは、正派せいはに対する武功の門派。邪教として忌み嫌われるものだ。


「わたしにはちょっとした野望があるので、それを叶えるために、い〜っぱい働いてもらいますからね、爽?」


 人当たりのよい好青年の物言いをしながら、憂炎は言外に問うている。


 ──踏みにじられたままでよいのか、と。


「教主さまの野望とは、なんですか」


 憂炎がなにを見据え、おのれがどこへ導かれようとしているのか。それを知る権利くらいなら、あるだろう。

 青年──爽の問いを受けて、憂炎はわらう。


「それはもう。『皇族殺したのしいこと』──ですよ」


 美しくも危険な微笑だった。


 憂炎に連れられ、爽は地下牢を抜け出す。

 と、ふいのまばゆさに目がくらみ、爽は手のひらで影をつくった。

 こわごわとまぶたをもち上げると、頭上は満天の星。そして。


「満月……」


 真っ白な月が、漆黒の夜に浮かんでいた。


「久しぶりに、みました」

「そうですか。きれいなものでしょう」

「はい。……あの、教主さま」

「なんですか」

「月がしずんだら、朝陽も、見られるのでしょうか」

「ばかなことを言いますねぇ」


 軽快な足取りで先をゆく憂炎が、ふと立ち止まり、爽を振り向く。


「夜でも、雨の日でも、雲の上には太陽があるんですよ」

「……そう、ですね」


 その言葉は、すとんと胸に落ちた。

 こころのやわいところをくすぐられたような、こそばゆい感覚をともなって。


「昇らない太陽は、ない……」


 爽は名残惜しげに夜空を見上げ、つぶやく。


 どこからか吹き抜けたそよ風が、歩み出した爽の黒髪を、そっとなでた。

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