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第78話 翠桃はかぐわしく【後】

 夜の来ない金玲山こんれいざんではあるが、疲れたときは眠くなるものである。


「ここまでにしとこうかな」


 早梅はやめは使いかけの針と糸を棚の引き出しに仕舞って、ふぁ……とあくびをもらす。

 いつもならこのまま寝台へ沈み込むが、ふと外の空気を吸いたくなり、早梅は窓際へ行って格子窓をひらいた。


「……へっ!?」


 そこで、予想だにしない出来事が起こる。

 軒下に、なんかある。


(人みたいなのがうずくまって……えっ、ちょ、待って)


 早々に混乱へ陥った。


「あのう、大丈夫ですか?」


 生きてるんだろうか、これ。

 早梅は窓枠から身を乗り出し、現状の把握を試みる。

 黒い。髪も服装もとにかく黒い人らしきモノが、いわゆる『ごめん寝』をしている。


 寝室をきょろきょろと見わたし、壁に飾られてあった宝剣を手にとった早梅は、窓際にもどり、鞘の先っちょでつつこうとしてみた。


「さわるな」


 そして、ぴしゃりと放たれた低い声音に、ぴゃっと飛び上がった。


(生きてたんかい!)


 早梅は内心ツッコまずにはいられなかった。

 それからも、この奇妙なやり取りは続く。


「僕にさわると火傷しますよ」

「えっ……」

「いや、そのままの意味ですからね。肌が焼け爛れて激痛を感じる物理的なほうの火傷です、なのでくれぐれも素手でさわらぬように!」


 可哀想なものでも見る早梅の視線を察したのか、うずくまっていた黒い物体が、がばっと起き上がった。


「えっ……なっ!」


 なにがなんだかわからない早梅でも、かろうじてわかることがある。

 突然息を吹き返し、窓越しに詰め寄ってきたのが、十五、六くらいの、おなじ年ごろの少年だということ。

 それから、艶のある黒髪をした彼の瞳が、まばゆい黄金色をしていたことだ。

 その背後に見える濡れ羽色の翼は、幻覚だろうか。


黒皇ヘイファン……」

「ちがいます。僕は黒慧ヘイフゥイ。黒皇は一番上の兄ですね」

「待って……それじゃあ君は、黒皇の弟!?」


 道理でよく似ている。つまりは八咫烏やたがらすでもある少年──黒慧を、早梅はまじまじと見つめてしまう。

 黒皇が真顔の美青年なら、黒慧は仏頂面の美少年だった。なにか気にさわることでもしたろうか。


「あぁ、お騒がせしてすみません。激務明けで過労気味で。金王母こんおうぼさまのところへ行こうとしたら、ちょっと道を間違えてしまいました」

「ちょっとじゃない、めっちゃ間違ってる!」


 金王母の私宮があるのは、金玲山の西。ここ青涼宮せいりょうぐうとは正反対の方角だ。

 黒慧よ、間違えるにもほどがある。これは、相当キていると見た。


「なかにお入りよ! とりあえず休んで、話はそれからだ!」

「え、でも妙齢の女性のお部屋に、失礼するわけには」

「いいから! ほら黒慧!」


 ここで、憂炎ユーエンを陥落させた早梅の世話焼き性分が炸裂。黒慧の黒い袖を引っぱる。

 渋る黒慧だったが、ふらふらと前後不覚になるほど、疲労と睡魔が極限に達していた状態だ。


「じゃあ……すこしだけ、おじゃまします」


 半ば夢うつつで黄金の瞳をとろんと蕩けさせ、一羽の烏となって、黒慧はそよ風とともに窓から舞い込んだ。

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