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第76話 翠桃はかぐわしく【前】

 からころと。


 宝玉の共鳴する瓏池ろうちのほとりに、黒皇ヘイファンは二本足でたたずんでいた。

 黒皇はおもむろに片ひざをつくと、左手で袖をおさえ、岸辺から右腕をのばす。

 ひろい手のひらが、雫をからめた瑠璃の玉を浅瀬からすくい上げた。

 黒皇の欠けた黄金の隻眼が、透きとおる深青しんせいの宝玉を映し出し、ゆらめく。


梅雪メイシェお嬢さま、せつは──私は」


 すべての音が、つむがれることはない。

 唇を引きむすんだ黒皇は、言葉の代わりに、ついばむような口づけをひとつ、瑠璃の玉へ落とした。



  *  *  *



 早梅はやめの姿は、長らくすごした瓏池のほとりをはなれ、金玲山こんれいざんの東、青涼宮せいりょうぐうにあった。

桃花四仙とうかしせん』にそれぞれ与えられる私宮しきゅうのひとつだそうだが、この宮のあるじに「俺はあんましウチにいねぇからなぁ。好きに使ってくれや」と案内された。


 晴風のノリこそ軽いが、スイートルームばかりを取りそろえた高級ホテルを、まるっと貸し出されたようなものである。それも無償で。

 これは笑っていいのか、困っていいのか。


「難しいことは抜きにして、くつろいでいいのよ」


 早梅の心情を察したかどうかはさだかではないが、静燕ジンイェンがそう言ってほほ笑む。

 静燕自身も北に宮をもつが、勝手知ったるわが家とばかりに青涼宮に出入りし、縮こまる早梅の肩をほぐしていた。


「『桃花四仙』は、フォンおじいさまとイェンおばあさまのほかに、ふたりいらっしゃるんですよね?」


 早梅がすこし考えて思いついた談笑の材料といえば、それくらいだった。


「えぇ。朱天元君しゅてんげんくんと、白雲元君はくうんげんくんね」

「元君……風おじいさま以外は、みなさま女性なのですね」

「なんたって王母おばあさまは、女仙の長ですから。金玲山に、風兄さん以外の男仙はいないわ」

「花の園ということですか? それがどうして、風おじいさまは仙としてお登りに?」

「王母さまが、それはもう気に入っちゃって」


 外見的な話だろうか。たしかに晴風チンフォンは、見た目だけでいえば繊細な顔立ちをしているが。


「朱天元君は恥ずかしがりで宮にこもりきりで、逆に白雲元君は、流れ雲のように下界をまわっているの。顔を見られたらいいことがあるかも、くらいに思ってていいわ」


 珍獣かなにかだろうか。

 冗談めかす静燕が、早梅の正面にまわり、「さぁ、できた」と満足げにえりをととのえる。


「似合ってるわよ。お花よりきれいなお嬢さんね」

「言いすぎです、燕おばあさま……」


 今日も朝一番に、静燕が荷物をかかえて早梅の寝所へやってきた。

 手にしていたのは、白にも薄緑にも見える、上下ともに絹の襦裙じゅくん

 普段なら腰で帯を締めるが、スカートを胸もとまで上げ、桃色の披帛ひはくをまとう。


 現代的にいうなら、ふわりとすその波打ったフレア生地のワンピースに、ショールを身につけた感じだ。

 淡いミントグリーンとピンクの春色パステルカラーにつつまれて、静燕に櫛で髪を梳かれるなんて。おとぎ話のお姫さまにでもなった気分の早梅だ。


「いよいよ、琵琶を弾けなくなってきたわね」

「そうなんです……刺繍に精を出せということですね」


 胸と腹が出てきた。普段の装いではきつくなってきたため、腹を圧迫しない格好へ衣替えをしてくれた静燕には、感謝しかない。

 腹が大きくなると、琵琶もつっかえて弾けなくなる。前もって静燕にたのんで用意してもらっていた刺繍道具と、これから仲良しこよしになりそうだ。


梅梅メイメイ、いるかー?」


 そんなとき、朗々とした呼びかけがある。扉越しでもよく通る声の主は、晴風だ。


「あら兄さん、女の子はまだ支度中よ」

「おっ燕燕イェンイェンもいっしょか。わりぃ悪ぃ。あとでいいからよ、梅梅をちょっと貸してくれんかね」

「私になにかご用でしょうか、風おじいさま」

「やー、たいしたことじゃねぇんだけどなー!」


 子孫まごが可愛くて可愛くてしょうがない自称『おじいちゃん』は、早梅が名前を呼ぶだけで、声音がすぐに浮き足立つ。


「最近は調子もいいみたいだし、散歩でもしようぜ。いいとこに連れてってやるよ!」

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