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第75話 瑞花咲けり【後】

 紅白の蓮の花が、一面に狂い咲いている。 

 蓮池に浮かぶ高殿で、早梅はやめは卓をはさみ、金王母こんおうぼと向き合っていた。


青風せいふうとは、晴れた日の風のこと。玄鳥げんちょうとは、春を愛する燕のこと。なれば、幸福をしらせる雪、瑞花ずいかにしましょう。そなたの仙名は、瑞花元君ずいかげんくんです」

「瑞花、元君……」

「おや、お気に召しませんか?」

「滅相もございません! ただ、実感がわかず……自分が仙女となり得る器なのか、疑問なのです」


 仙籍せんせきに入るならば、不老長生を得る。

 これは苦行を耐え抜いたからこそ得られるもの。果たしておのれは、それに足る修行を積んだろうか。早梅は疑問でならなかった。


「えぇ、何事も成さねば成らぬ。ゆえにそなたは、仙たる器だといえましょう」

「……私は、なにを成したのでしょうか?」

「ひとつは、怪我をした可哀想な烏を助けたことです」


 金王母が言っているのは、黒皇ヘイファンのことだ。

 黒皇とはじめて出会ったのは、まだ梅雪メイシェたちが幼かった九年ほど前。そのことと、なんの関係が。


小鳥シャオニャオ……黒皇は、わたくしのお世話係でした。ですが、ある日お使いに出たまま、行方知れずとなっていたのです。そなたが助けてくださったのでしょう?」

「わがザオ家の邸宅近くでたおれているところを、偶然見つけたのです」

「偶然? いいえ。この世のすべては必然です。そうあって然るべし。そなたらは、なるべくして出会った」


 金王母はそう言って、優雅な所作で手にした茶杯へ口づける。

 見目は可憐な少女でも、彼女はたしかに数千年を生きる大仙女なのだと、早梅は言葉を交わすほどに実感する。


「ほかにも、孤独な獣人の少年に、惜しみない愛を注いだこと。悪をいとい、みずからの危険をかえりみずに剣を振るったこと。そなたはたくさんのことを成しました。妾は、機をうかがっていたのです」

「機を……ですか?」

「はい、この世にふたつとない瑞花が、花ひらくときを、です。そしてそなたは、妾の期待に見事応えてくれました」

「……お言葉ですが、私は、金王母さまのおっしゃるような人格者などではありません」


 仙となるには、早梅の身はあまりに傷だらけで、血にまみれている。


「その身に子をやどしたからですか? 女仙となるのに、処女性は問われません。小燕シャオイェンも、子を生んだのちに登仙しています」

「いえ……私が申し上げたいのは」

「人をあやめたこと? 人命を奪ったおのれが、仙として天帝てんていにお仕えできるはずがないと?」


 見抜かれていた。

 しかし、うつむく早梅の苦悩を、金王母はいともたやすく一蹴してしまう。


「よいですか。いつの時代の、どの名君主らも、みずから剣を振るって後世に名を残したのです。人を殺めることをことごとく悪とするなら、この世のすべては悪ということになります」

「流される血があっても、致し方ないと?」

「むろん、いたずらに命を奪ってもよい道理はございません。たいせつなのは、血の甘露に酔わず、おのれの良心にしたがって悪をくじく、強き精神こころなのです」


 そこで言葉を区切った金王母は、つと、新緑のまなざしで早梅を見据える。


「妾は、懲罰をつかさどる神でもあります」

「──!」

「そなたが今上帝きんじょうていを憎むこころは私怨しえんなれども、報いるは世のことわりではございませぬか」


 高い少女の声音でありながら、凛としたひびきに、早梅は圧倒される。

 あぁたしかに、可憐なだけではない方だ、と。


「悪を厭い、勇敢に立ち向かわんとするそなたの力が、妾には必要なのですよ。これで答えになりますか、小梅シャオメイ?」


 金王母の真摯な面持ちを受け、早梅はにわかに気を引きしめる。


「金王母さまのご期待には添いかねるやもしれませんが、私は、私の思う『悪』をはらうつもりでおります」


 度重なる別離に、打ちひしがれた。

 慟哭し、挫折し、絶望さえした。

 それでも歯を食いしばって立ち上がったのは、必ず遂げなければならない本懐が、ゆるがずに在るためだ。


「まぁ、たのもしいですこと」


 早梅の瞳の奥底に確固たる光をかいま見た金王母は、満足げに、花の笑みをほころばせた。

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