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第69話 満月の逢瀬【後】

梅姐姐メイおねえちゃん、さわっていい?」

「えっ? あ、うん」


 甘えんぼうな憂炎ユーエンは、もともとスキンシップが多かった。早梅はやめはろくに考えず、癖で返事をする。

 それが、いけなかった。


「ありがと!」


 憂炎のはじけるような笑顔が炸裂したかと思えば、ふに、と唇にやわらかいものが。


(……あれっ?)


 はじめはふれるだけだったのに、やわく食まれたり、ちゅっと音を立てて吸われたりする。


「ん……おねえちゃん……」

「憂炎、ちょっと待っ……んんっ」


 かぷり、と噛まれてしまった。唇をまるごと。


「はっ……おねえちゃん、すき……すきぃ」


 熱をおびたかすれ声に、うっとりと蕩けた柘榴色の瞳。

 なんだか大変よろしくないような気が、早梅は猛烈にしてきた。

 からだを離そうにも、憂炎はびくともしない。

 待ってほしい。この子は、こんなに力強かったろうか。


「約束だからね。ぜったい梅姐姐をむかえにいくから。そしたら、もっともっと、俺とあそんでね」


 するりと指をからめられて、早梅はやっと気づく。

 まだまだ幼さは残る一方で、憂炎の手が、自分のものより大きくなっていたことに。


「あなたは俺の、俺だけのもの」


 手だけじゃない、声だって。

 少年と青年のはざまにある、あどけなくて、どこか危ういもの。


「覚悟して。二度と離してなんかやらない」


 鈴虫の音も、川のせせらぎも、蛍の光も、なにもかもが、早梅の視界から霞んでゆく。


「──愛してるよ、俺の、梅雪メイシェ


 最後にまたひとつ、早梅へかさねられる口づけ。

 そのあまりの熱にあてられ、ぼうっとにじんだ意識を、早梅はついに手放してしまった。



  *  *  *



「……黒皇ヘイファン、おねがいがある」

「はい、なんなりと」

「私をいますぐに、そこの池へぶち込んでほしい」

「いやです」


 うたた寝をしてしまった。口にするのもはばかられる夢まで見て。

 いっぺん頭を冷やすべきだと早梅が決心して発言したことは、過保護な愛烏まなからすにすげなく却下された。真顔はやめてほしい。


(いくら憂炎に会いたいからって、あれはないだろう……うわぁああ!)


 早梅の知る憂炎とは、見た目も言動もかけ離れていた。

 純粋無垢なこどもで、自分を姉と慕ってくれる憂炎が、あんな、恋人にふれるようなことをするはずがない。


 身悶える早梅の頭を、黒皇はとりあえずなでていた。

「お嬢さまは寝ぼけてらっしゃるんですね」くらいにしか思っていなかった。


「あら、フォンの言ったとおりね。仲がいいことだわ」


 からころ、と水底からひびく鈴の音色にまざって、くすくすという笑い声が、早梅の耳にとどく。

 聞き慣れない女性の声。百杜はくと訛りだ。


 黒皇の腕から顔を出した早梅は、瑠璃の瞳を見ひらく。

 三色の木の葉が風にそよぐ森のほうから、新雪のような髪を結い上げた老婦人が、危うげない足どりでこちらへ歩み寄ってくるではないか。


「これは、玄鳥元君げんちょうげんくん

「いいわよ、黒皇。かしこまったことはなしにしましょう。私はちょっと、お散歩にきただけだもの」


 腰を折ろうとする黒皇を、静かな声音で制する老婦人。

 おだやかな笑みをたたえたその双眸もまた、早梅とおなじ瑠璃色をしていた。

 言わずもがな、彼女も仙人なのだろう。


「お初にお目にかかります、ザオ梅雪メイシェと申します」

「まぁ、ご丁寧にありがとう。私は風──青風真君せいふうしんくんとおなじ『桃花四仙とうかしせん』で、玄鳥元君なんて呼ばれているわね」


『桃花四仙』とは、はじめて聞く言葉だ。

 早梅の疑問を察してか、黒皇が続ける。


「こちら金玲山のあるじは、金王母こんおうぼさま。金王母さまにもっとも近いとされる天仙のみなさまが、『桃花四仙』であらせられます」


 要するに、この山で一番えらいひとの、側近のひとり。つまりは、えらいということだ。


「そういう肩書きがあるってだけよ。あまり気兼ねせずに接してちょうだいな。肩が凝っちゃうもの」


 本人は、さして気にとめていないようだが。

 そうして冗談めかす老婦人の様子は、晴風チンフォンのそれを思い起こさせる。


「風は、王母おばあさまのところへ行ってるわ。戻ってくるまでもうすこしかかりそうですから、私とおしゃべりでもしましょう? 梅雪ちゃん」

「よろしいのでしょうか?」

「もちろんよ。そうそう、私のことは気軽にイェンイェンって呼んでね」


 だれのなにとは言わないが、既視感が早梅を襲う。


(『フォン』に、『イェン』ときたか……)


 人知れず、まさか……と薄々感じていたことが、早梅の予想どおりとなった。


「あ、これはこどものころの愛称なの。名前で呼んでくれてもいいわ。私はね、静燕ジンイェンっていうのよ」


 ──そぅら、きたぞ。


 薄笑いを返しながら、早梅は内心、頭をかかえる思いだった。

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