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第68話 満月の逢瀬【中】

「待って」


 駆け出そうとした早梅はやめのからだが、あっという間に引き戻されてしまう。

 きぬ越しに早梅の腕をつかむ感触は、人の『手』によるものだ。


「なんで逃げるの」

「……人違いです」

「間違えるわけないでしょ」


 あぁ、捕まってしまった。


「なんで?」


 ふり向いては、いけない。


「なんで俺を置いていったの?」


 合わせる顔など、なかったはずなのに。

 早梅は強引に腕を引かれ、ふり向かされてしまう。


「ねぇ、教えてよ……梅姐姐メイおねえちゃん


 そこにいたのは、無邪気なこどもではない。

 悲痛な表情を浮かべた、十三、四歳ほどの少年だ。

 背丈は、ちょうど早梅を追い越したころ。

 胸もとまでしかなかった、小柄なあの子とは違う。

 そう思いたくとも、間近にせまる面影が、早梅に否定をさせてくれなかった。


「……憂炎ユーエン

「っ、梅姐姐、梅姐姐っ!」


 早梅がうわ言のように名前を呼べば、まばたきのうちに、少年、憂炎に抱きしめられる。


「そばにいてって、ずっといっしょにいるって約束したのにっ……」

「私は君に、ひどいことをしたんだよ」

「してない! 梅姐姐はずっとやさしかった! 梅姐姐だけが、俺にやさしくして、抱きしめてくれた!」


 巻きつけられた腕が、苦しい。

 ぶつけられる叫びが、痛い。


 それでも、これは夢なのだ。

 非情にも見捨てた自分を、この子がいまだに慕ってくれるわけがないのだ。

 そう、これは都合のいい夢。


「俺、たよりなかったかな……もっともっと強くなって梅姐姐を守れるようになったら、俺のこと、見てくれる?」

「憂炎は、充分強いよ」

「ごまかさないで、ちゃんと教えて。なんでもする。梅姐姐がいないと、どうにかなりそう……」


 どうせ夢なのだから、すこしくらい、わがままになってもいいだろうか。

 ふいに、そんな考えが早梅の頭をよぎる。


「……むかえに、きて」


 ──私だって会いたい。憂炎に会いたいよ。


 押し殺していた想いをひとたび認めてしまえば、とたんにあふれ出す。


「私を連れ出して」


 憂炎に必要とされているのだと、憂炎が、証明してほしい。


「そうしたら、憂炎の好きにしていいよ」


 息をのむような気配があって、早梅の背に回された腕の力がゆるむ。

 代わりに、ほほを憂炎の手のひらでつつみ込まれた。


「……ほんとに? 俺の好きにしていいの?」

「私のわがままだもん。それくらいしなきゃ、釣り合わない」

「約束、もうやぶらない?」


 痛いところをつかれた。早梅は縮こまる思いである。

 穴があるなら入りたいくらいだ。いっそ埋めてほしい。


「……そんなことをしたら、私はいよいよ、君に死んでお詫びをしなければいけなくなるので……」

「死んじゃやだ」


 みなまでは、言わせてもらえなかったのだが。


「それじゃあ梅姐姐は、俺のものだね」


 見違えて、憂炎が上機嫌になった。


(うん、まぁ、『わがままを叶えてくれたら』の話なんだけど)


 憂炎の脳内では、当然のごとく達成する運びらしい。

 それにしても、「俺のもの」とはどういった意味合いなのだろうか。

 まさか、これまでの恨みを込めて、ころころ転がされたりするのだろうか、物理的に。

 いや、どこぞの変態くそ野郎とは違う。純粋な憂炎に限って、そんな。


 なぜか不安が首をもたげる。が、「うん? 俺がどうかした?」とはにかむお顔のまぶしいこと。

 余計な心配だと、早梅は正体不明の違和感を頭の隅に追いやることにした。

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