今日も今日とて、早梅はやめの姿は瓏池ろうちのほとりにあった。

　金玲山こんれいざんでは陽が落ちない。地上で言う夜が来ないため、時間の流れがひどくゆるやかに感じる。

　ここへ来て、何日がたったのか。黒皇ヘイファンにたずねて指折り数えるのも、両手が使えなくなるからやめた。

「あの曲を──『白雪小哥妹はくせつしょうかまい』をね、弾けるようになりたいんだ」

　早梅はしきりに、黒皇へ話した。

　あの曲の結末は、悲劇などではない。

　兄が妹を、妹が兄を想う、真実の愛の物語なのだ。

「途絶えさせてはいけない。私がつなぐ」

　哀しみに暮れ、取り憑かれたようにただ琵琶を奏でていたあのころとは、違う。

　しゃんと背を伸ばした早梅の後ろ姿は、もう頼りない少女のものではなかった。

　早梅の白魚のごとき指が、白琵琶にぴんと張った銀色の弦を爪弾く。

　一音一音が、透明な水面に波紋をひろげる。

　そのたびに水底の宝玉がこすれ合い、鈴のごとく澄んだ音色で共鳴する。

　早梅は知らないのだろう。

　このところ、瓏池がざわめいてやまないのを。

　ひびきわたる旋律が煌めく氷の結晶をまとい、この世に唯一の光景を生み出していることを。

「ちょっと疲れちゃった。えへへ」

　息の仕方も忘れて魅入る黒皇をふり返り、早梅がおどけてみせる。

「へいふぁーん」と幼子のように抱きついてくる早梅を受けとめた黒皇は、くすりと笑みをもらし、ひざへかかえ上げた。

「ねむいー……」

「拙せつがおりますから、おやすみくださいませ」

「んー……」

　聞いているのか、いないのか。

　生返事をこぼす早梅の背を黒皇ごなでるうちに、瑠璃の瞳がうつらうつらとしてくる。

　やがて早梅は白琵琶を抱いたまま、寝息を立てはじめる。

「よい夢を」

　やわらかいほほに親愛の口づけを落とし、黒皇は濡れ羽色の翼で、だれよりも愛しい少女を包み込んだ。

　　＊　　＊　　＊

　リン、リンと、鈴虫が鳴いている。

　まったく見おぼえのない暗い森のなかに、早梅はたたずんでいた。

「ここは……どこだ？」

　冬の終わりに金玲山へ入ってから、そう何か月もたってはいないはず。

　真白い景色しか知らない早梅は、物珍しい心境であたりを見わたす。

　夏だろうか、秋だろうか。

　蒸し暑さも肌寒さも感じない。

　そのうちに、これは夢なのかもしれないなぁ、という結論に至った。

　夢ならば、あてもなくぶらついても、黒皇のお叱りを受けることはないだろう。

　生来の楽観的な思考で結論づけた早梅は、後ろ手に指を組み、思いつきの音階を口ずさみながら、気ままな夜の散歩へとくり出した。

「満月の夜だ……」

　早梅は空をあおぎ、感嘆をもらす。

　曖昧な夢の景色で、遥か頭上の白い月だけが、鮮明に網膜へ焼きつく。

　心地よい鈴虫の音にいざなわれ、歩を進めていた早梅の視界が、ふいに拓ける。

　早梅は、はっと息をのんだ。

　月の美しさに感動したばかりだというのに、瑠璃のまなざしは、いともたやすく奪われた。

　蛍が飛び、小川のせせらぐ場所で、月明かりよりも白い毛並みの狼が、その身を横たえていたからだ。

　とたん、早梅の脳裏によみがえる面影がある。

（いや、そんなはずは、ない……）

　だってあの子は、まだまだ幼い子狼だ。

　目前の白狼は、記憶のものよりひと回りは大きい。

（もう、行こう……）

　早梅はふらつくようにして、きびすを返す。

　だが、注意が散漫になっていた。

　小枝をふみ折る音が、静寂をゆらす。

　ぴくりと、大きな白い三角の耳が反応する。

　夜空そらを見上げていた白狼が、早梅をかえり見た。

　早梅をとらえたのは、熟れた柘榴のような灼眼しゃくがん。

　はじかれたように、白狼が四つ足で立ち上がる。

　どくりと、早梅の心臓が脈動する。

　早梅は声をもらしそうになる口もとを押さえ、身をひるがえしていた。

　けれども、逃げ出すことは叶わない。