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第66話 おひさまとえがお【後】

黒皇ヘイファン! だっこ!」

「あの、お嬢さま」

「だっこ!」


 これには、さすがの黒皇も頭をかかえた。


(……愛らしすぎでは?)


 残念なことに、着目すべき点はそこではない。

 が、それに黒皇が気づくことはないだろう。


「あのさぁ、黒皇」

「はい、お嬢さま」

「『陰陽和合おんみょうわごう』って、知ってるよね?」

「はい。え……あ」


 ──男不寛衣男は衣をゆるめず

 ──女不解帯女は帯をとかず

 ──敬如神明神明のごとく敬い

 ──愛如父母父母のごとく愛せ


 黒皇に、はなかった。


 けれど黒皇の慈しみのこころが、早梅はやめのこころと通い合い、荒ぶりを鎮めた。

 それが結果として早梅の体内の気を高め、生命力となったのだ。


「黒皇の想いが伝わってきたの。あったかかった。ありがとう、黒皇」


 黒皇は込み上げてきた熱を、形容できる言葉が見つからない。せめてもと、早梅を抱き上げる。

 早梅をひざに乗せたそばから、黒皇の首へ、細腕が回された。


「君は私のおひさまだね。ぽかぽかだぁ」


 すっかり血色けっしょくを取り戻した早梅にほおずりをされたら、黒皇はもう、我慢ならなくなった。


梅雪メイシェお嬢さま……お嬢さまっ」

「わわっ、くるしいよぉ」


 黒皇の胸にうもれ、困ったように眉を下げる早梅だが、まんざらでもなく。


「たくさん心配かけてごめんね」

「どうってことはありません」

「私やっぱり、黒皇がいないと駄目みたいだからさ……ぎゅってして、なでなでしてほしいかなぁって」

「いくらでも。お嬢さまがお望みでなくても、黒皇はぎゅってして、なでなでしたいと思っていますから」

「食い気味。こりゃ末期かね」

「お嬢さまだけです」

「とんだ殺し文句だ。いいだろう、如何様いかようにでもしたまえ」

「では、遠慮なく。なでなで」

「……うわぁああ、へいふぁああんん!」


 瞬殺だった。黒皇の手にかかれば、早梅なんぞイチコロである。


「ふふっ……」


 黒皇はなんだか可笑しくなってきて、おのずとほほがゆるんだ。黄金の隻眼を細めて、ほほ笑む。

 対して、なにが起きたのか、早梅はすぐには理解できない。


「黒皇がわらった……っ!?」

「黒皇も生きているので、わらいもします」

「真顔で言うことじゃなくない!? もう一回! もう一回だけさっきのちょうだい、黒皇!」

「任意でわらうのは苦手です」

「がんばれ黒皇! 負けるな黒皇の表情筋!」

「黒皇はなにと闘ってるんですか」


 平静をよそおっていたが、黒皇は内心、わらいだしたくてたまらなかった。

 くるくると変わる早梅の表情が、あんなにも切望した笑みが、目の前にあるのだ。


(黒皇のだいすきな、お嬢さまのえがおです)


 気を抜くとだらしない顔になってしまうだろうから、すまし顔を張りつけようとする黒皇だけれど。


「ようし黒皇、私とにらめっこ対決だ」


 唐突すぎる早梅の言葉は、完全なる不意うちだった。


 額と額をくっつけて、一瞬の沈黙。

 それからどちらともなく、吹き出した。


 嗚呼。

 ささいなやり取りのひとつひとつが、こんなにも愛おしいことを、早梅も、黒皇も、やっと思い出せた。

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