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第61話 悪夢に散る花【前】

 はじまりは、妙な息苦しさをおぼえたこと。

 早梅はやめはだれかに名を呼ばれている気がしたが、視覚も聴覚もくぐもって、よく見えない。よく聞こえない。

 何度も唇にふれる熱いものの感触だけが、鮮明だった。


 次の夜。違和感はそれに加え、からだにふれる『手』の感触。

 四肢の表面をくすぐるだけだったそれが、しだいに熱をおびた手つきになる。

 えりすそから侵入した『手』は、素肌を這って、胸もと、それから腿の内側へ。

 曖昧だった聴覚がもどり、媚びた猫のように跳ねる女の声を、ときおり耳にした。


 そして、何度目の夜だろうか。


「──梅雪メイシェ


 早梅ははっきりと、呼び声を聞く。熱をはらんだ、低い男の声だ。

 とたん、早梅の視界にかかったもやがふき飛ぶ。

 焦点が合い、血のごとく鮮烈な緋色の双眸を映し出す。


 早梅は戦慄した。

 なぜルオ飛龍フェイロンがいる。

 どうして自分は、衣服を乱され、どことも知れぬ豪奢なへやの寝台で、組み敷かれているのか。

 飛龍を突き飛ばそうにも、敷布へ縫いとめられている両手に、うまく力が入らない。


「あぁ……ようやくだ」


 追い討ちをかけるかのごとく、飛龍の指が絡められる。


「ようやく、な?」


 早梅の耳朶に、飛龍の吐息がかかる。押しつけられた男のからだは、燃えるように熱かった。

 距離をつめた飛龍の美しい顔が、恍惚をたたえてゆがむ。


「おいで。私とあそぼう」


 早梅は、こわばった唇をふさがれる。

 やわやわと食まれ、わずかに離された薄い唇が弧を描いた直後、突如襲う圧迫感。

 早梅の悲鳴が、濃密な空間にひびきわたる。


「愛らしい鈴の音だ……この手で鳴らしたくなる」


 視界がゆれている。

 梅雪、梅雪、と。しきりに名を呼ぶ飛龍に、早梅はゆさぶられていた。


 熱い、熱い、苦しい。

 からだの内側から、はちきれてしまいそうだ。

 腹の奥に、飛龍がいる。

 なによりも、欲情しきった緋色の瞳の先にいるのが自分だなんて、早梅は信じたくなかった。


「視線をそらすなと言ったろう」


 首をそむけたことが、飛龍の機嫌をそこねた。


「私を見ろ。おのれを掻き乱す男がだれなのか、そのからだでしかと覚えるのだ」

「ふぁっ……んむぅっ」


 噛みつくような口づけ。強引に唇へ割り入る熱い舌。

 唾液をからめる粘着質な水音が、早梅の脳髄までもおかす。


 きぬがこすれ、寝台が軋む。

 早梅に覆いかぶさった飛龍が、しだいに息を荒らげてゆく。


「あぁ梅雪、そなたは本当に悪い女だ、私をこれほどまでに昂ぶらせるなんて!」


 飛龍の劣情は熾烈さを増し、本能のままに、容赦なく早梅をゆさぶっていた。

 まさに、愛欲と快楽におぼれる獣そのもの。


 早梅は、なすすべがなかった。

 こばむことが叶わず、ただただ飛龍の背に爪を突き立て、かん高い嬌声きょうせいを上げることしかできない。


「そなたのすべては、私のものだ、梅雪……っ!」


 ひときわ低いうめき声を飛龍がもらした瞬間、早梅の視界が真っ白に染まった。

 腹の奥の奥まで、尋常でない熱に満たされる。


 永遠のような刹那だった。

 呆然と脱力した早梅のからだを、吐息をもらした飛龍が抱き込む。


「私の手で咲き誇ったそなたは、いっとう美しいな……んっ」


 ゆるりと弧を描いた飛龍の唇が、早梅の喉笛を食む。

 早梅の首すじ、胸もとに吸いつきながら、飛龍はなおも、武骨な手のひらで少女の柔肌をまさぐる。

 早梅にはもう、抵抗する気力など残されていなかった。


「梅雪。気高きわが梅花の姫よ」


 早梅の視界が、暗くかすむ。

 遠のく意識の中、早梅が最後に見たものは。

 ふみ荒らされた雪上のような白いしとねに散った、あかい梅の花びらだった。


「もう、私からは逃げられんぞ」


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