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第59話 蒼天をつらぬく【中】

 金玲山こんれいざん

 はたして『氷花君子伝ひょうかくんしでん』という物語に、そのような場所が登場したろうか。

 すくなくとも、早梅はやめの記憶にはない。この魂の依代よりしろである梅雪メイシェの知識にも、だ。

 そうした未知なる場所へ、早梅はいま、足をふみ入れる。


 久方ぶりにふみしめたのは、青々としげった草の感触だった。

 堅牢けんろうな岩肌ばかりが目についたためか、霧を抜けた先にこのような森があるとは、思いもしなかった。


 早梅はあたりを見回したのち、はっと息をのむ。

 その際によろめいた早梅の背を、黒皇ヘイファンの大きな手のひらが抱きとめた。


 一歩ふり返れば、岩を割ったような崖。

 その目下では、早梅が首をめぐらせても見渡せないほどに広大な雲の海が、ゆるやかに波打っている。


「雲海だ……なんて優美な」


 彩雲のごとき、七色の海。

 あの海を抜けて、やってきたのか。

 早梅はいまだに信じられない。


 雲上にそびえる、まぼろしの霊山。

 なるほど。その所在を知るが、どこにもいないわけだ。


「さぁ、まいりましょう」


 早梅は夢見心地のまま、黒皇に手を引かれて歩み出す。


 時節は晩冬。

 地上では、まだ春も芽吹かない寒さに首をすぼめた人々が、足早に行き交っていた。


 それが、この場所ではどうだろう。

 身を切るような冷寒はなく、すこし肌寒い程度の気温は、かえって心地がいい。


 まるで、青葉に朝露がきらめく夏と秋のはざまへ、迷い込んだようだ。

 呼吸をするだけで、清澄な空気に、身もこころも洗われる。五感が冴えわたる。


(静かな場所だなぁ)


 あまりふみ固められていない軟土やわつち小路こみちを、早梅は黒皇に導かれるままゆく。

 頭上には、生い茂る木々が織りなす天然のアーチ。おなじ枝に、あかあおの木の葉がつらなっている。

 木陰がふいのそよ風に揺れ、三色の網目から、きらきらと光の粒子が降りそそいだ。


 自然が、生きている。

 それは浮世離れした光景。

 けれど、たしかに目前にある。


 それから間もなく、早梅の視界がひらける。

 すぐに、反り返った崖にはさまれた、見上げるほど巨大な一枚岩が立ちふさがる。

 なにかの文字のようにも見える紋様が、一面に刻まれている。

 石碑だろうか。残念ながら、早梅は解読できないが。


「行き止まりか……」


 どうしたものか。

 思案する早梅をよそに、黒皇が一歩進み出る。

 黒皇は石碑の紋様をなぞるように右手をすべらせ、おもむろに額をふれあわせた。

 なにかを祈っているような、そんな後ろ姿だった。

 じっと沈黙すること、しばらく。


「こちらへどうぞ、お嬢さま」


 何事もなかったかのようにふり向いた黒皇が、石碑から離した右手で、いずこかを指し示す。

 指先をたどると、どうやら脇道があったようだ。

 早梅の胸もとまであるだろう草むらは、金と銀の色をしていた。


 早梅はいよいよもって、おかしくなってくる。

 さて、今度はどんなおどろきが待ち受けているのだろうか。


 草むらをかき分け、先導していた黒皇の頭が、突然早梅の目線より低くなった。段差があるようだ。


「お足もとにお気をつけくださいませ」

「ありがとう」


 黒皇に手を取られ、早梅は思いきって土を蹴る。

 早梅の体重を受け止めた黒皇は、身を反転させ、華奢な早梅を地面へそっとおろした。

 そのときはじめて、静寂の空間をふるわせる音色の存在に気づく早梅。


 からころ、と。

 鈴を鳴らすような音が聞こえる。

 不思議な旋律の発生源は、すぐ目前にあった。


「わぁ……池? 湖? きれいだなぁ!」


 見わたす限りに、澄みきった透明の水面。

 早梅は思わず駆け寄り、ひざを折る。


 紅玉、黄玉、瑠璃、翡翠、紫水晶。そのほか色とりどりの無数の宝玉が、水底みなぞこに沈んでいる。

 風がそよぐと水面に波紋がひろがるとともに、宝玉がこすれあって、鈴の音のような澄んだ音色を奏でるのだ。


「だれが落としたのかなぁ? 落っことしたにしても、こんなにいっぱい、うっかりさんすぎるよね!」

「そうですね」


 岸辺にしゃがみ込んだ早梅が、黒皇を見上げ、こどものように無邪気な笑みをはじけさせる。

 その笑みこそがどんな宝玉よりもまぶしいと、黒皇は黄金の隻眼せきがんを細めた。

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