「うっ、く……!」
目もあけられないほどの豪風にもまれるなか、
もし崖に落ちれば、ひとたまりもないからだ。
悔しいけれど、ほんとうに腹が立つけれど、飛龍にすがりつくほかなかった。だが。
──……さ……ま……
早梅の優れた聴覚が、ある音をひろう。
「ただの天変地異ではないな……何奴!」
むろん、応えるものなどない。
正体のわからぬ相手に、飛龍は舌打ちをもらす。
みる間に竜巻の勢いは増し、呼吸さえも困難にさせる。
そのうちに、飛龍は気づいた。
吹きつける風の勢いが、局所的に集中している。
おのれが早梅をいだく腕こそ、
まるで、早梅と引き離そうとしているようだ。
「っ、梅雪!」
飛龍の声は、早梅にはとどかない。
早梅の意識は、すでに別の場所にあった。
──……じょう、さま……
なつかしい声が、早梅の耳に聞こえた。
早梅は安堵とともに脱力。
つながりをうしなった早梅の手が、飛龍の胸もとから離れる。
そして、ひときわ強烈な突風が吹き降ろした。
とっさに腕を伸ばす飛龍。
しかし、つかんだのは
自身の腕からこぼれた早梅を、とどめることはできない。
「梅雪!!」
飛龍の叫びは、荒れ狂う風と、
風にさらわれた早梅のからだが、深い深い谷底へと吸い込まれてゆく。
崖へ駆け寄る飛龍だったが、落ちゆく早梅を覆い隠す『影』に気づき、ぎり、と歯を軋ませる。
「……いいだろう、今宵は見逃してやる」
そして血に染まる瞳を
「私から逃げられると思うな、梅雪! 必ずや迎えにゆくぞ、たとえ地獄の果てであってもな!」
それは愛という狂気に理性をうしなった、獣の咆哮だった。
* * *
墜ちる、墜ちる、どこまでも。
全身が引き裂かれるのではないかと思うほどの風圧を一身に受け、早梅は深い谷底へ落下していた。
(このまま死ぬのかな。死ぬかも。だって私、この物語の主人公じゃないもん)
なんて他人事のように思って、それで。
「……じょう、さま……おじょうさま」
早梅が諦めかけていたときに、彼はあらわれた。
冷たい風にさらされて、寒くて寒くて。
けれどなすすべもなく放り出されたからだを、ふわりと包み込むぬくもりがある。
力強い腕に、抱きとめられる感触。
「梅雪お嬢さまッ!!」
早梅は稲妻に撃たれたかのように、我へ返らされる。
月が。夜空に浮かんでいた偃月が、どこにもない。
だけれど、嗚呼。
黄金の太陽のような瞳が、早梅の目の前にある。
墜ちゆく早梅を抱きとめたのは、上背のある若い男だった。年のころは二十前後だろうか。
彼が
「あのっ……」
「安全な場所へお連れいたします。いますこしご辛抱を」
「えっ、ちょっ……きゃああ~っ!」
早梅は幽霊である。
とはいえ、生身の肉体をもったいま、自然の摂理に逆らえるはずがなかった……のに。
早梅をかかえた青年が、艷やかな濡れ羽色の翼をはためかせ、夜の渓谷を滑空する。
「飛んでる飛んでる、空飛んでるぅ~!」
錯乱する早梅の急激に低下した語彙では、もはや風情もくそもない。
その上、慌てずさわがず「もうすぐです」と返す謎の青年よ。外見のわりに渋い声だ。
これが俗にいう『イケボ』とかいうやつなのか。若者言葉なので合っているのかわからない。
ゆるい旋回にすら目が回るような心地になりながら、早梅はどうにか正気をたもち続けた。
やがて、ばさり、と
渓谷でも上流にあたる川岸のようだった。
そっと下ろされた早梅は、待ちわびた地面との再会に感極まってしまい、そのまま倒れ込んだ。
「うわーん! こわかったよー! びっくりしたじゃんよもー!」
「お嬢さま、お気持ちはわかりますが、お召し物が汚れてしまいます」
川原の丸い小石においおいと泣きついて、はしたないとでも思われただろうか。
それにしたって、聞き覚えのある物言いだ。
青年の濡れ羽色の髪も、左だけひらいている黄金の瞳も、見たことのあるような色彩だ。
「てゆーか、突然あらわれて、なんだね君は!
「梅雪お嬢さまを『梅雪お嬢さま』と呼ぶ烏が、黒皇のほかにおりますか?」
「いやいないけども! ……んっ?」
ちょっと待ってほしい。
早梅の記憶のなかの黒皇は、足が三本ある以外は、ぱっと見普通の烏のはずだが。
なのに、目の前の青年が、黒皇?
「……黒皇なの?」
「黒皇でございます」
「だって、だって、どう見ても人間……」
「そんなことはどうでもよろしい」
「どうでもよくないよぉ……!」
「どうでもよくないかもしれませんが、いまはそのへんに放っておいてください」
ふぅ……と嘆息する、青年もとい黒皇。
その眉間に深いしわが刻まれているのを見れば、なにかよろしくないことが起ころうとしている空気を、早梅もビンビンに感じる。
「梅雪お嬢さま」
「あっはい」
早梅は反射的に身を起こして、正座の姿勢になる。
たらたらと冷や汗を流す早梅の両肩へ手を置いた黒皇が、黄金の
「なにを、なさろうとしていましたか……?」
あっこれ尋問だ。
早梅は早くも泣きたくなる。
なぜなら、黒皇に叱られたことなど、これまでただの一度もなかったので。
要は、ビビりまくっていた。
「なにって、えっと、そのぉ……潜入作戦?」
「はい?」
「ハニートラップというか……女の色気で、にっくき皇帝陛下をぶち殺そうかと」
「おやめください、破廉恥です」
「破廉恥ってゆった! 破廉恥ってゆった! 私めちゃくちゃがんばってたのにぃ!」
いろいろと限界がきていた早梅の情緒は、早々に崩壊してしまった。もうバッキバキの粉々である。
「
そこへ、こんなことを言われてしまったら、もう。
反則、としか。
「お嬢さまは独りではありません。黒皇がおそばにいるではありませんか。違いますか?」
「ちが、わない……」
「でしたら、教えてほしいのです。かなしいことも、つらいことも、黒皇はぜんぶ受けとめます。だいじなだいじな梅雪お嬢さまに、傷ついてほしくないのです」
早梅はもうたまらなくなって、うつむいた拍子に、涙がこぼれ落ちた。
「……ひ、とりで、こわかった」
すこしの間があって、早梅の濡れたほほに手が添えられる。大きな手のひらだった。
「あいつに、いろいろされて……いやだった」
「えぇ、そうでしょうとも」
「なんでわたしをおいていったの、紫月……さびしいよ、紫月、ずーゆぇ……っ!」
「……お嬢さま」
慰める言葉はない。
黒皇はただ、小刻みにふるえる早梅のからだを抱きしめる。
それが痛いくらいで、あったかくて。
「うぅ……ぁあ、うぁあああっ!!」
せき止められていた激流があふれるように、黒皇の腕のなかで、早梅は声を上げて泣き叫んだ。