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第54話 風にさらわれる【後】

「うっ、く……!」


 目もあけられないほどの豪風にもまれるなか、早梅はやめも必死に飛龍フェイロンへしがみついていた。

 もし崖に落ちれば、ひとたまりもないからだ。

 悔しいけれど、ほんとうに腹が立つけれど、飛龍にすがりつくほかなかった。だが。


 ──……さ……ま……


 早梅の優れた聴覚が、ある音をひろう。


「ただの天変地異ではないな……何奴!」


 むろん、応えるものなどない。

 正体のわからぬ相手に、飛龍は舌打ちをもらす。


 みる間に竜巻の勢いは増し、呼吸さえも困難にさせる。

 そのうちに、飛龍は気づいた。

 吹きつける風の勢いが、局所的に集中している。


 おのれが早梅をいだく腕こそ、であると。


 まるで、早梅と引き離そうとしているようだ。


「っ、梅雪!」


 飛龍の声は、早梅にはとどかない。

 早梅の意識は、すでに別の場所にあった。


 ──……じょう、さま……


 なつかしい声が、早梅の耳に聞こえた。


 早梅は安堵とともに脱力。

 つながりをうしなった早梅の手が、飛龍の胸もとから離れる。

 そして、ひときわ強烈な突風が吹き降ろした。


 とっさに腕を伸ばす飛龍。

 しかし、つかんだのはあかい梅花の刺繍がされた袖。

 自身の腕からこぼれた早梅を、とどめることはできない。


「梅雪!!」


 飛龍の叫びは、荒れ狂う風と、きぬの引き裂かれる音にかき消される。

 風にさらわれた早梅のからだが、深い深い谷底へと吸い込まれてゆく。

 崖へ駆け寄る飛龍だったが、落ちゆく早梅を覆い隠す『影』に気づき、ぎり、と歯を軋ませる。


「……いいだろう、今宵は見逃してやる」


 そして血に染まる瞳を爛爛らんらんと輝かせながら、飛龍は絶叫するのだ。


「私から逃げられると思うな、梅雪! 必ずや迎えにゆくぞ、たとえ地獄の果てであってもな!」


 それは愛という狂気に理性をうしなった、獣の咆哮だった。



  *  *  *



 墜ちる、墜ちる、どこまでも。

 全身が引き裂かれるのではないかと思うほどの風圧を一身に受け、早梅は深い谷底へ落下していた。


(このまま死ぬのかな。死ぬかも。だって私、この物語の主人公じゃないもん)


 なんて他人事のように思って、それで。


「……じょう、さま……おじょうさま」


 早梅が諦めかけていたときに、彼はあらわれた。


 冷たい風にさらされて、寒くて寒くて。

 けれどなすすべもなく放り出されたからだを、ふわりと包み込むぬくもりがある。

 力強い腕に、抱きとめられる感触。


「梅雪お嬢さまッ!!」


 早梅は稲妻に撃たれたかのように、我へ返らされる。


 月が。夜空に浮かんでいた偃月が、どこにもない。

 だけれど、嗚呼。

 黄金の太陽のような瞳が、早梅の目の前にある。


 墜ちゆく早梅を抱きとめたのは、上背のある若い男だった。年のころは二十前後だろうか。

 彼が只人ただびとではないことは、その背から生えた一対の翼から理解できる。


「あのっ……」

「安全な場所へお連れいたします。いますこしご辛抱を」

「えっ、ちょっ……きゃああ~っ!」


 早梅は幽霊である。

 とはいえ、生身の肉体をもったいま、自然の摂理に逆らえるはずがなかった……のに。

 早梅をかかえた青年が、艷やかな濡れ羽色の翼をはためかせ、夜の渓谷を滑空する。


「飛んでる飛んでる、空飛んでるぅ~!」


 錯乱する早梅の急激に低下した語彙では、もはや風情もくそもない。

 その上、慌てずさわがず「もうすぐです」と返す謎の青年よ。外見のわりに渋い声だ。

 これが俗にいう『イケボ』とかいうやつなのか。若者言葉なので合っているのかわからない。


 ゆるい旋回にすら目が回るような心地になりながら、早梅はどうにか正気をたもち続けた。

 やがて、ばさり、と砂塵さじんを巻き上げて、青年が着地する。


 渓谷でも上流にあたる川岸のようだった。

 そっと下ろされた早梅は、待ちわびた地面との再会に感極まってしまい、そのまま倒れ込んだ。


「うわーん! こわかったよー! びっくりしたじゃんよもー!」

「お嬢さま、お気持ちはわかりますが、お召し物が汚れてしまいます」


 川原の丸い小石においおいと泣きついて、はしたないとでも思われただろうか。

 それにしたって、聞き覚えのある物言いだ。

 青年の濡れ羽色の髪も、左だけひらいている黄金の瞳も、見たことのあるような色彩だ。


「てゆーか、突然あらわれて、なんだね君は! 黒皇ヘイファンみたいな声をして!」

「梅雪お嬢さまを『梅雪お嬢さま』と呼ぶ烏が、黒皇のほかにおりますか?」

「いやいないけども! ……んっ?」


 ちょっと待ってほしい。

 早梅の記憶のなかの黒皇は、足が三本ある以外は、ぱっと見普通の烏のはずだが。

 なのに、目の前の青年が、黒皇?


「……黒皇なの?」

「黒皇でございます」

「だって、だって、どう見ても人間……」

「そんなことはどうでもよろしい」

「どうでもよくないよぉ……!」

「どうでもよくないかもしれませんが、いまはそのへんに放っておいてください」


 ふぅ……と嘆息する、青年もとい黒皇。

 その眉間に深いしわが刻まれているのを見れば、なにかよろしくないことが起ころうとしている空気を、早梅もビンビンに感じる。


「梅雪お嬢さま」

「あっはい」


 早梅は反射的に身を起こして、正座の姿勢になる。

 たらたらと冷や汗を流す早梅の両肩へ手を置いた黒皇が、黄金の隻眼せきがんでゆっくりと覗き込んできた。


「なにを、なさろうとしていましたか……?」


 あっこれ尋問だ。


 早梅は早くも泣きたくなる。

 なぜなら、黒皇に叱られたことなど、これまでただの一度もなかったので。

 要は、ビビりまくっていた。


「なにって、えっと、そのぉ……潜入作戦?」

「はい?」

「ハニートラップというか……女の色気で、にっくき皇帝陛下をぶち殺そうかと」

「おやめください、破廉恥です」

「破廉恥ってゆった! 破廉恥ってゆった! 私めちゃくちゃがんばってたのにぃ!」


 いろいろと限界がきていた早梅の情緒は、早々に崩壊してしまった。もうバッキバキの粉々である。


紫月ズーユェさまは、そんなことのために梅雪お嬢さまをお守りしたのではありません。もちろん黒皇も、おなじ気持ちです」


 そこへ、こんなことを言われてしまったら、もう。

 反則、としか。


「お嬢さまは独りではありません。黒皇がおそばにいるではありませんか。違いますか?」

「ちが、わない……」

「でしたら、教えてほしいのです。かなしいことも、つらいことも、黒皇はぜんぶ受けとめます。だいじなだいじな梅雪お嬢さまに、傷ついてほしくないのです」


 早梅はもうたまらなくなって、うつむいた拍子に、涙がこぼれ落ちた。


「……ひ、とりで、こわかった」


 すこしの間があって、早梅の濡れたほほに手が添えられる。大きな手のひらだった。


「あいつに、いろいろされて……いやだった」

「えぇ、そうでしょうとも」

「なんでわたしをおいていったの、紫月……さびしいよ、紫月、ずーゆぇ……っ!」

「……お嬢さま」


 慰める言葉はない。

 黒皇はただ、小刻みにふるえる早梅のからだを抱きしめる。

 それが痛いくらいで、あったかくて。


「うぅ……ぁあ、うぁあああっ!!」


 せき止められていた激流があふれるように、黒皇の腕のなかで、早梅は声を上げて泣き叫んだ。

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