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第53話 風にさらわれる【中】

ザオ梅雪メイシェよ。私を『悪なる者』だと称すが、それならば私のこころを掻き乱すそなたは、『絶世の悪女』とでも呼ぼうか?」

「……ロリコンかよ」

「それは褒め言葉か」

「最上級の罵詈雑言ですわ、くそ野郎」


 仮にも三十路すぎの子持ちが。

 顔がよければなにをしても許されると?

 そんなのは少女漫画のなかだけ。

 犯罪は犯罪だ。


「女に暴言を吐かれたのも、はじめてだ」

「そりゃそうでしょうよ」


 早梅はやめのような命知らずでなければ、だれだってわが身は惜しいだろう。

 言いたい放題に煽りまくったのだ。飛龍フェイロンの機嫌をそこねることくらい、覚悟はしていたが。


「だがその鈴の声音は、嫌いではない」


 早梅のもっとも恐れていたことが、現実となってしまった。


「んぅうっ!」


 懲りずに飛龍へ投げつけようとしていた悪態ごと、呼吸を奪われたのだ。

 反射的に歯を立て、がり、とにぶい音の直後、ほろ苦い鉄錆の味が早梅の口内へひろがる。


「……はっ」


 やっとの思いで胸を押し返した早梅を、冷めた血色の双眸で、飛龍が見下ろす。


「私から視線をそらすことは、まかりならんぞ」


 冷えきっているのに、その奥には底知れない熱情が燻っているような、低いひびきをもった声音だった。


「いやっ……ふぁっ、んんっ!」


 無情にも押しつけられる唇。

 ぬるりと入り込んできたものが、血の絡んだ唾液をかき混ぜ、早梅の口内を蹂躙する。


「……女に口づけをしたのも、はじめてだ」


 くつくつと、喉の奥を鳴らすような笑い声が聞こえる。


「早家の血がと甘く感じるという話は、本当のようだな?」


 ……そんな、まさか。


「どうやら私とそなたは、たいそう相性がいいらしい」


 そんなことが、あっていいものか。


「ふ……そう怖がらずとも、そなたのことは殺すまい。そなたの血がなければ、私は生きてゆけぬからだとなってしまったのだからな」


 目をつむり、耳をふさいでしまいたい。

 しかし手足は動かず、呆然と固まる早梅をあざ笑うかのごとく、耳朶へ熱い吐息が吹き込まれる。


「あぁ……こんなに食指が動くのもはじめてだ。はやく連れ帰ってしまおう」


 これが『愛』なのか、わからない。

 即座に否定できなくなっていることに、早梅はひどく混乱していた。


「勝負をしよう、早梅雪。そなたが私を殺すのが先か、私がその憎悪を『愛』で塗りつぶすのが先か」

「睦言のようなことをおっしゃって……飽きたら、殺すのでしょう」

「殺すのは簡単だが、そんなことはあり得ないと断言できるな。不思議なことに」


 早梅へさらさらと言葉を返す飛龍の唇が、めじりを、ほほを、口の端をくすぐる。


「なぜなら私は、そなたを孕ませてやりたいとすら思っているのだからな。女を抱きたいと思うのもはじめてだ。まったく、おどろかせてくれる」


 早梅はぞわりと、肌が粟立つ。

 美しすぎる飛龍の笑みに、嫌悪感しかない。


 死とは違う恐怖にさらされ、全身を掻きむしりたくなるような、えも言われぬ感覚にみまわれる。


(……『氷毒ひょうどく』を克服した? 『千年翠玉せんねんすいぎょく』の力もない、ただの人間の飛龍が?)


 あり得ない。

 だが、それでは飛龍がいまだ死に至らぬことの説明がつかない。


 もし、飛龍が『氷毒』を克服したとするなら……勝てるのか、飛龍に。


「急におとなしくなったな。疲れたか? どれ、私が運んでやろう」


 早梅の両足が、地面を離れる。

 姫のごとく早梅を抱き上げた飛龍は、やはり笑っていた。


「梅雪」

「っ……!」


 名を呼ばれた。早梅はそれだけでうろたえてしまう。

 そんな早梅に気づいていないのか。

 いや、気づいているからこそか、飛龍はさらに笑みを深める。


「今宵は月が美しいな、梅雪」


 だめだ、聞くな。

 こころを動かされるな。

 この男は憎むべき仇なのだ。

 感情を凍らせろ。


(あぁ……でも、『愛される』のも悪くないかもしれない)


 もうひとつ、思い出したのだ。

氷花君子伝ひょうかくんしでん』の梅雪が、どうやって飛龍を毒殺するに至ったのか。


 そのを、思い出した。


 後宮で地位を築いた梅雪は閨に呼ばれ──情事のさなかに、おのれの血を大量にまぜた酒を、飛龍に口移しで飲ませていたのだ。


 復讐のために、純潔を捧げる。

 まさに、執念。


(梅雪だってやり遂げた。私にもできないはずはない)


 否、これは早梅にしかできないことだ。

 どうせこの手は血に濡れている。

 いまさらうしなうものは、ないだろう。


「……陛下」


 月を背に闇夜を歩んでいた飛龍が、ふと立ち止まる。


「殺したいほど、あいしています」


 早梅は氷の笑みを浮かべ、ほほを包み込む。

 迷いが生まれる前に、飛龍へ唇を押しつけた。

 紫月ズーユェが相手だと思えば、いくらか楽になれた。


「あぁ。その憎悪ごと愛している、梅雪」


 この世でもっとも憎い男に抱きしめられながら、早梅は薄く笑っていた。

 こころをわたすくらいなら、壊してしまおう……と。


 飛龍と密着してなお凍える早梅のそばで、ヒュルリと、風が啼く。

 悲鳴のようにかん高い風音が、谷間たにあいにこだました。


「風が強いな──」


 何気なく独りごちた飛龍であったが、はっと息を飲む。

 がしかし、時すでに遅し。

 飛龍が身をひるがえしたその先で、突如巻き起こった風が、竜巻となって牙をむいたのだ。


 女子供ならたちまちに吹き飛ばされてしまうほどの豪風。

 平生であればお得意の手掌術で内功をぶつけ、相殺する飛龍であるが、両のかいなで早梅を抱いているため、それが叶わない。


 そしてこの場は崖にかこまれた高地。

 退避できる場所もない。

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