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第48話 うそつきの罪【前】

 白い月明かり。

 夜気に翡翠の髪がなびき、憂炎ユーエンが姉と慕ってやまない少女が、鋼の刃をふるう。


 あれは、剣だ。

 いのちを奪う、おそろしいものだ。

 それなのに、なぜ、恐怖と嫌悪の対象でしかなかった剣の軌道へ釘づけになってしまうのだろう。


 剛にして柔。

 ハヤメの剣技には、紫月ズーユェにはないやわらかさがあった。

 それは、筆を薄紙へすべらせている光景にも似て。

 慎ましやかな気品と、多くを語らぬこその迫力が、そこにはあった。


 この光景を、憂炎はよく知っている。

 書のお手本を書いてみせてくれた横顔と、おなじだ。


(……梅姐姐メイおねえちゃんは、絵をかいてるんだ)


 漆黒の風景を、紅の墨でいろどっているのだ。


 そこに、憂炎が入る余地などない。

 時を忘れた憂炎は、柘榴色の瞳で、いつまでも見惚れていた。

 ただただ、きれいだ……と。



  *  *  *



 月明かりのもと、ふわりと孔雀緑くじゃくみどりの裾がひらめく。

 右腕をおろし、現実へ戻ってきたなら、つんとした刺激臭に、ハヤメは顔をしかめる。


 血なまぐさい。

 それもそうだろう。人を斬ったのだから。

 この手で、殺した。


 全身を切り刻まれ、物言わぬ人形と化したうつぶせの男を見おろしながら、ハヤメはどこか他人事のように思う。


「憂炎」


 息を吐き出すように、ハヤメは名を呼ぶ。

 そっとハヤメが見やると、憂炎は木の幹にもたれたからだを、ぴくりとふるわせた。

 ゆれる柘榴色の瞳は、なにを思っているだろう。


「私が、恐ろしいか」


 すぐに答えはない。

 慕っていた姉が、突然人が変わったように男を斬り殺したのだ。

 憂炎がおそれをいだいたとて、無理はない。

 もういいだろう、頃合いだ。


「この先は、君ひとりでゆきなさい」

「っ、なんでっ……」

「やつらのねらいが、私だからだ」


 こちらから出向いてやれば、逃げた犬の一匹程度、わざわざ追いかけはしないだろう。

 それがハヤメの考える、この場における最善の選択に違いなかった。


「いい子だから、言うことを聞くんだ」


 ハヤメはつとめて平静をたもち、畳みかける。

 沈黙。そして、衣ずれの音。

 剣先から滴る血をにらみつけていたハヤメは、視界の端にちいさな足が映り込み、顔を上げる。


「なんで、そんなこというの」


 投げかけられた憂炎の声音に、抑揚はない。

 憂炎らしからぬ物言いは、少なからずハヤメをうろたえさせた。


 その一瞬の隙を逃さず、とんっ……と肩を突き飛ばされる。

 かしいだハヤメのからだが、薄く雪の積もった地面に倒れる。


 ハヤメはとっさに背を丸めて後頭を守ったが、上体を起こすことは叶わない。

 自分を転ばせた憂炎が、のしかかってきたためだ。


 はっ……と、ハヤメの耳朶にふれる熱いものがある。

 ハヤメはたちまちに血の気をうしなった。

 待て、この子は、なにをするつもりだ。


 ハヤメがそう戦慄したときには、ずぷりと、鋭利なものに貫かれていた。


「うっ、くぅっ……!」


 憂炎に噛まれている。

 まだ傷の癒えていない右肩とは反対側。

 まっさらな左の首すじへ、深く深く。


「なにをしているっ……はなし、なさいっ!」


 憂炎の襟首をつかみ引き剥がそうとするも、びくともしない。

 憂炎はハヤメの首に食らいついたまま、いやいやと激しく首をふるのだ。

 そのうちに、ハヤメはくらりとめまいを催す。


 あぁ、まただ。

 熱をおびるこの感覚は、ラン族の唾液にふくまれる『灼毒しゃくどく』によるもの。

 ハヤメはそうと納得する一方で、違和感をおぼえてもいた。


 熱だけではない。傷口から伝導する甘い痺れは、なんだろう……と。


 どれだけそうしていたか。

 抵抗をやめたハヤメから、わずかにからだを離す憂炎。

 柘榴色のまなざしには、炎をともしたような熱がやどっている。


「梅姐姐……」


 はっ、はっ、と呼吸が荒い。

 憂炎も、『氷毒ひょうどく』におかされているのだろうか。

 凍てつく毒にさいなまれているなら、どうしてそんなにも、熱っぽい表情を浮かべているのだろうか。


「……あまい、においがするの」


 ハヤメの首の傷口にやわらかいものがふれ、流れ出た血をぢゅ、と吸われる。


「んんっ……!」


 痛みと、それを超える痺れが、ハヤメの背すじを駆けぬける。


(憂炎……私を、食う気か……?)


 背中をやられて、頭までやられたのだろうか。

 肉の一片くらいならくれてやろう。

 ただし、いのちまではやれない。

 おのれには、成さねばならぬ目的があるのだ。


 身構えるハヤメをよそに、首や肩の肉を食いちぎるそぶりを、憂炎は見せない。


「おれの『どく』は、もう梅姐姐にわるいことしないよ」

「……どういう、ことだ」

「おれが、梅姐姐でいっぱいになったから」


 要領を得ない、幼子の言葉だ。

 それが意味することとは、一体。


 ほほを赤らめた憂炎の顔が近づく。

 憂炎はぺろり、ぺろり、とくすぐるように、ハヤメの傷口をなめる。


「いたいこと、してごめんね。でもね、梅姐姐がきらいだから、したんじゃないよ」

「私が……恐ろしくは、ないと」

「こわくないよ。梅姐姐は、梅姐姐だもん」


 すり……と熱っぽいほほを寄せられたかと思えば、柘榴色の瞳が、ハヤメの間近にあった。


「だいすき。梅姐姐もじぶんのこと、きらっちゃだめ、だよ?」


 あぁ、やられた。


 ──あいしてる。

 ──だから憂炎も、自分を嫌っちゃだめ。


 こんな仕返しを、されるなんて。

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