「
「そんなこと知らない! 俺はなにもしていないッ!」
それはつまり、こういうことだ。
紫月が母を蘇らせるために、『千年翠玉』を盗んだと、全員が思い込んでいるということ。
「紫月兄さま……」
「
紫月の最後の希望は、愛しい妹だった。
梅雪ならわかってくれるだろう。
香り袋を贈ってくれたのは、この子なんだから。
「ごめんなさい、紫月兄さま……わたし、うそはつけないよ」
「梅、雪……?」
「わたし、紫月兄さまに叩かれたんです……『千年翠玉』をもってこないと、もっと痛い目にあうぞって……それで、こわくて、こわくて……っ!」
梅雪はなにを、言っているのだろうか。
わっと
「うそ、だろ……」
「紫月兄さま、最近はどこか行ってましたよね。
「そんなわけない! おまえのためにっ……俺はやましいことなんてしてない!」
「わたしのために? ほんとうに?」
「もうよしてくれ、たくさんだ! おまえこそ悪い冗談はやめろよ、梅雪、なぁ梅──っ!」
ザン、と空気が裂かれる音がひびきわたる。
一拍遅れて、まだ熱の引かぬ紫月のほほに、たらりと生温いものが伝った。
「命が惜しくはないのか、痴れ者め」
「……ちち、うえ……」
紫月の口からこぼれた声は、か細くかすれた。
しがみつく梅雪をかばい立つ桃英の右手には、鋭い光を放つ剣がにぎられている。
まばたきのうちに抜刀した桃英が、紫月を斬りつけたのだ。
研ぎ澄まされた刃のごとき瑠璃の眼光は、愛する息子へ向けてよいものではない。
「『千年翠玉』を
そんなの知ったことか。
悪用しようなんて、考えたことなどないのだから。
「──
淡々とした桃英の一声が発されたとき、紫月の足はひとりでに動いていた。
ここにいてはいけないと、本能が叫んでいた。
(うそだ、父上……梅雪)
紫月の視界がにじむ。
(梅雪……梅雪、梅雪、梅雪ッ!!)
紫月が唇を噛みしめて、見やった先。
桃英にしがみついた梅雪が、つぶやいた。
──さようなら、と。
十のこどもらしからぬ、ひどく無機質な表情で。それこそ、人形のように。
その瞬間、ぷつりとなにかが切れる音を、紫月は聞いた。
父が、継母が、妹が。
ずっと一緒に暮らしてきた家族が、まるで罪人のように紫月を追いたてる。
がむしゃらに走って走って、苦しくて、それでも紫月は、足を止めてはならなかった。
「紫月さま! こちらへ!」
酸素不足で意識が朦朧とする紫月を、呼ぶ声がある。
ぼやけた紫月の視界に、濡れ羽色の翼を羽ばたかせた烏が映り込む。
「
荒い呼吸のなか、そうした問いを絞り出した紫月のうつろなまなざしに、黒皇が悲痛な表情を刻む。
「……うそをついていたならば、殺して食べていただいてもかまいません。
「へい、ふぁっ……!」
「さぁ早く!」
紫月がたよれるものは、もう黒皇しかいなかった。
雪道に足を取られ、枝に
駆けても駆けても空に浮かんでいる紅い陽が、自分を睨みつけている目玉のようで。
それからのことを、紫月はよくおぼえていない。
* * *
世界が白い。どこもかしこも、まっさらだ。
ちらちらと結晶の舞う雪原を、紫月はただ、亡霊のように歩いていた。
右手には、薄汚れた朱の梅花の香り袋。
なくしたと思っていた。
でも紐が髪に絡んでいて、それに気づいて、いまも手もとにある。
中には翠色の玉がみっつ残っていた。
そのうちのひとつを、紫月は飲み込んだ。
腹が空いていたわけじゃない。
ただ、死ねるんじゃないかと思って。
だが無情なことに、『千年翠玉』は紫月のいのちを奪うことはしなかった。
代わりに、泉のごとく湧き上がる『力』を、紫月へ与えた。
「……おまえは俺を憎んでいたんだな、梅雪」
考えてみれば、当たり前のことだった。
自分は卑しい獣で、そのくせ降ってわいたように『兄面』をして。
「たしかにおまえは、俺に『すき』とは言ってくれなかった」
それなのに、こんな布きれを贈られたくらいで舞い上がって。
──愚の骨頂だ。
「っくく……あはっ、はははははっ!!」
くしゃりと、紫月の手のひらのなかで、香り袋がつぶれる。
「愛していたのは、俺だけだったんだ!」
愛する妹から嫌悪されていたことにも、気づけないでいたなんて。
なんて愚かで、なんて滑稽な話だろう。
「愛して、いたのに……」
ひざから崩れ落ちる紫月のそばに降り立った黒皇は、なにも言わない。
半端な慰めなど、むしろないほうがいいと、わかっていたから。
光をうしなった紫月の視線が、虚空をさまよう。
「あぁ、そうだ……おまえは俺を憎んでいるけど、俺はおまえを愛しているから……今度会うときは、抱きしめてやろう」
艶をうしなった紫月の唇が、ゆるく弧を描いた。
「口づけをして、そのきれいな肌を暴いて……孕ませてやろう。憎い俺の子を孕んだら……おまえも、死にたくなるくらい、絶望するよな」
紫月はわらう。
それはとても、いいかんがえだ、と。
「憎い俺に一生囚われて、一生愛されろ……それがおまえへの復讐だ、梅雪」
そう思いついたら、そうとしか考えられなくなった。
紫月のこころは、粉々に砕かれてしまった。
そして妹に裏切られた兄は、愛憎の化身となったのだ。