目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第37話 愛故に堕つ【前】

 百杜はくとにまた、白い冬がやってきた。


紫月ズーユェお坊っちゃま」

「お坊っちゃまはやめろ」

「紫月さま、本日も梅雪メイシェお嬢さまが」

「……わかってるよ」


 黒皇ヘイファンがなにを懸念しているのかは、いうまでもない。

 すこし前からである。

 雪のふる日も外を駆け回る活発な梅雪が、へやにこもりがちになった。


「ねぇ紫月、琵琶って弾ける?」

「……弾けるけど、なんで?」

「物置きで見つけたの。聴きたいなって」


 代わりに、そう紫月へせがむようにもなって。

 紫月も幼いころ、母にちょっと習っただけだ。我流にもほどがある。

 そんな紫月の琵琶を、梅雪は聴きたいというのだ。

 そっけなく拒否をする選択肢など、紫月にはないとわかっていて。


「紫月はなんでもできちゃうなぁ。わたしは弾けないや」

梅梅メイメイも弾けるよ。おれが教えてあげる」


 一緒に琵琶を楽しんで、喜んでもらえたら、また笑ってくれるようになるだろうか。


(もっと上手くなろう)


 梅雪が望まない夜も、紫月は琵琶を一心不乱に奏で続け、腕をみがいた。

 すこしでも、母の音色へ近づくように。


「いい音だ」


 酷使した指が霜焼けではない赤に染まったころ、さえざえとした月夜に、男の声がひびいた。

 翡翠の髪に瑠璃の瞳をした男が、そっと背後にたたずんでいる。

 現実に引き戻された紫月は、深々と頭を垂れた。


「これはご当主──桃英タオインさまにごあいさつ申し上げます。夜分遅くにお耳汚しを」


 ザオ家における紫月の役割は、『梅雪の遊び相手』だ。

 食事も着るものも、梅雪に準ずるものを与えられる。

 娘のいのちを救ったとはいえ、得体の知れない自分に桃英がなぜそこまで慈悲をほどこすのか、紫月は長らく疑問だった。


「来なさい。話がある」


 仮に紫月が拒否したとして、ゆるしてしまうだろう。桃英は、そういう人物だ。

 紫月は琵琶を胸に抱き、桃英の背に続いた。


 紫月が連れて行かれた室には、すでに人影があった。

 前をゆく桃英とおなじ翡翠の髪に瑠璃の瞳をした女性が、紅木の椅子のそばに立っている。

 桃英の妻、桜雨ヨウユイだ。


「琵琶の音が、ここまで聞こえてきたわ。とても澄んだ音色ね」


 そこまで言われてしまえば、謙遜は失礼にあたるだろう。紫月は会釈をかえす。

 紫月を見つめた桜雨のまなざしは、おだやかだ。


「いつ見ても、本当によく似ている……彼女も、琵琶の達人だった」

「桜夫人まで、なにを……」

「いらっしゃい、紫月。あなたとは話をしたいと思っていたの」


 梅雪の父と母。紫月にとっては主人だ。

 ほとんど遠巻きでしか目にしたことのないふたりが、一体どうしたというのだろう。


「紫月、座りなさい」

「ですが、桃英さま」

「かけなさい」


 困惑する紫月も、そう言われては従うほかない。

 当主、次いで奥方が腰かけたのを見とどけて、紫月もおずおずと椅子を引いた。

 首を縮めた紫月と向かい合う、四つの瑠璃の瞳がある。

 ややあっておごそかにつむがれた桃英の言葉は、紫月へ衝撃を与えるのに、充分すぎるものだった。


四宵スーシャオという名を、知っているな」

「──っ! なんでッ!!」


 知っているもなにも。

 愛してやまない、母の名だ。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?