これは本能によるもので、する、しないが自由に選択できる次元のお話ではない。
だから狼族のこどもを生めるのは狼族だけだと、大昔から決まっていた。
彼らほどではないが、
猫族は女を大切にする。
女の数が、極端に少ないからだ。
その上、子を成しにくい種族とくれば、必然と力関係は定まる。
一妻多夫。猫族に生まれた女は姫のごとくもてはやされ、父親の違うこどもをたくさん生む。
そうした定めのもとに生まれた母は、なにを血迷ったのか、一族を飛び出した。
やがて生まれたのが自分。父親は、知らない。
「あなたは、まだ月が眠らない明け方に生まれたのよ、
こんなに可愛いこどもに恵まれて幸せだと母はいうけれど、それならどうして、父の姿がどこにもないのだろう。
幼心に、旭月はさびしかった。
そして物心がつくころ、唯一の家族だった母が死んだ。
なんのことはない。
たまたま行商でおとずれた街で、たまたま裕福な屋敷の
いろんな『たまたま』がかさなり、無残にも母のいのちは奪われた。
身勝手な
──逃げなさい、旭月!
──北へ! 北へ行くのよ!
非力なこどもでしかなかった旭月は、言われるがままに逃げ出すことしかできなかった。
昼は太陽を、夜は星の位置をたよりに、旭月は広大な地をがむしゃらに駆けた。
そうして、終わりのない道に、身もこころも疲れ果てたとき。
「にゃんにゃんだ!」
旭月は寒い寒い山奥で、あの子に、出会ったのだ。
* * *
多くの種族と民が暮らす
西北の
そのため、古くから謎多き秘境とつたえられてきた。
そんなおとぎ話のような土地に、旭月はたどり着いた。
粉雪のふりしきる山にて。
疲労と空腹で行き倒れた旭月を見つけたのは、くりくりとした瑠璃の瞳の女の子だった。
女の子はめずらしい
「にゃんにゃんもいくのー!」と駄々をこねて、頭をかかえた大人たちが渋々聞き入れていた。
(おれは、どうなるんだろう……)
獣人と知られることの危険を嫌でも痛感していたのに、衰弱した旭月は、ある失態をおかした。
(ただの猫のふりをすれば、すこしは
そう考えていたことを、口に出してしまっていたのだ。
はっと我に返ったとき、終わった、と旭月は思った。
そんな旭月の絶望などくずかごへ放り投げるように、幼い女の子は、無邪気に手をたたいて喜んだ。
「旭月」
「じゅーゆぇ!」
「シューユェ」
「じゅう、ゆぇ!」
「……もういいよ、それで」
二、三歳くらいだろうか。旭月が根負けして名前を教えても、発音があやしい。
そんなに踏んばらなくてもいいだろうに。旭月は早い段階で訂正をやめた。
この子の名前は、
だが、甘やかされて育ったわがままな『お姫さま』かというと、それも違う。
「じゅーゆぇも、たべゆ?」
梅雪は、旭月のことをむやみに言いふらす真似をしなかった。
(なんで?)
子猫が人の言葉をしゃべることを、だれにも話さなかった。
(なんで……)
そればかりか、世話係の目を盗んで、自分の食事だとか
卑しい獣でしかない旭月の目線までかがんで、友として見てくれたのだ。
(……こんな人間が、いるなんて)
旭月に食べるものの半分をわけていた梅雪は、年のわりにからだがちいさくて。
無性に泣き出してしまいたくなった。
そんな旭月とは正反対に、梅雪は笑みをたやさない子だった。
「ずーゆぇ! ずーゆぇ! みてー!」
すこしは進歩したけれど、やっぱり舌足らずな梅雪。
なにやら得意げに紙きれを見せられて、旭月は不覚にも笑ってしまった。
ミミズみたいな墨で書かれていたのは、かろうじて読める『紫月』のふた文字。
空があからむ明け方は、月もあかいというけれど。
梅雪にとっての
「
そうして『
いつの間にか冬を越え、ふくらんだ蕾がほころぶ季節をむかえていた。
* * *
早いもので、四年もの月日が流れる。
梅雪とは仲睦まじくすごしていた。
あの日までは。
「あぁもう、うるさいっ!」
その日の紫月は、すこぶる虫の居所が悪かった。
いつもは
「さわるなよ、あっちに行けよ!」
紫月は良家のお嬢さまが可愛がる猫として、ふさわしく振る舞ってきたつもりだった。
だからこんな
(なんで……なんでなんでなんで!)
おまえが駄々をこねるから、ここに来たのに。
おまえが寒いと言うから、夜は丸まって一緒に寝ているだろう。
おまえが気持ちよさそうに毛をなでるから、本当は苦手だけど、一緒に湯だって浴びられる、なのに!
(梅梅が、おれじゃない猫をだきしめて、なでてた……!)
それがどうしようもなく、紫月は腹立たしかった。
「紫月……」
「うるさいうるさいっ! あいつのところに行けばいいだろ、ばかっ!」
聞く耳は持ってやらない。
わっとまくし立てた紫月のほうが、たまらなくなって、
「なんでだよ……おれには、梅梅しかいないのに……」
ひとときの激情が冷めてしまうと、あとには虚しさだとか、後悔だけが、紫月の胸に残る。
「……おれ以外のやつと、なかよくしてほしくない……」
嫌いになりたいと思えば思うほど、梅雪の笑顔が浮かぶ。
紫月がはじめて知る感情に戸惑うその日、百杜の地にきて、はじめて独りの夜をすごした。
凍えて凍えて、どうにかなりそうだった。
自分勝手に飛び出した手前、のこのこと戻るのはためらわれる。
けれど、すこしだけならと、紫月は翌日こっそり屋敷に忍び込んだ。そして。
「薬草が足りない! とりに行くんだ、早く!」
寝台に横たわった梅雪の、変わり果てた姿を目の当たりにしてしまう。
──その瞬間、世界のなにもかもが色をうしない、ぼろぼろとくずれ落ちる音を、紫月は聞いた。