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第33話 月は雪に溶けて【後】

(……あかい、瞳)


 覆面からのぞく色彩は、憂炎ユーエンのそれとは違う。

 おびただしい血を吸ったような、不気味なあかい瞳が、月光を反射する。

 こちらの血まで吸い取られたかのように、ハヤメの四肢が凍りつく。

 得体の知れぬ男がまとう『気』に、あてられたのだ。


ザオ家の娘は手足をもいでもいい。ただし、生け捕りにしろ。鶏でもあるまいに、私の言葉を忘れたわけではなかろう」

「も、もちろんでございます! わたくしどもは、あなたさまの御為に……!」

「御託はいい。私は利用価値のないもの、役に立たぬものが好かんのだ」


 言葉をかぶせた緋眼の男が、血色のまなざしをハヤメへよこし。


「息をする価値がないとさえ、思える」


 その手前、妹の目前へ立ちふさがった紫月ズーユェをとらえる。


「──『滅砕掌めっさいしょう』」


 それは、まばたきのうちの出来事。

 まっぷたつにへし折られる、白銀の刃。

 一瞬で間合いを詰めた男の手掌が、紫月の鳩尾に叩き込まれる。

 時が止まったかのような無の空間に、ごり、と嫌な音がひびき。

 ともすれば女人のごとく華奢な紫月の体躯が、いともたやすくふき飛ばされてしまう。


「……かはッ!」


 石造りの塀へ叩きつけられた拍子に血の塊を吐き出した紫月が、力なくくずれ落ちた。


「兄、さま……紫月兄さまッ!」

哥哥おにいちゃん!」


 ハヤメ、そして憂炎が駆け寄るも、紫月は応えない。

 夢中で紫月を抱き起こしたハヤメは、完全に顔色をうしなう。

 もとより細い紫月の腰回りが、その腹部が、異様にへこんでいたために。


「わが『滅砕掌』は、きぬを裂かずして骨を砕き、臓物をつぶす」

「そんな、こと……」


 あり得ない。できるはずがない。


はもう、人のかたちをしたがらくただ」


 これは、人の所業ではない。


「……起きてください、紫月兄さま……ねぇ」


 ハヤメはうわごとのように、紫月を呼ぶ。


「私を独りにしないって約束したじゃない! 紫月!!」


 みっともなく泣き叫びながら、どこか俯瞰ふかんしているおのれがいた。

 あぁ……そうか。現実を受け止めたくないのは、胸が張り裂けてどうにかなってしまいそうなのは。

 紫月を、愛しているからなのだ、と。


「……あなたはいつも意地悪だったけど……こんな意地悪って、ない……」


 明林ミンリンだけでなく、紫月まで。

 相次ぐ喪失感と絶望は、ハヤメを非情に押しつぶそうとする。


梅姐姐メイおねえちゃん……」


 なんと声をかければよいのかがわからず、どもる憂炎だったが、伸ばしかけた右手をはっと引っ込める。


「……泣くな、ばか」

「は──」


 ハヤメのもとにとどいたのは、聞き慣れた意地悪で。

 そのくせ、ひどくやさしい声音で。


「んぅっ……」


 文句は言わせないとばかりに、ハヤメは唇をふさがれる。

 ふいの口づけは、にがい鉄錆の味がした。

 藍玉の瞳が、そばにある。

 ハヤメを、見つめている。

 それだけで、ハヤメはこころが高鳴った。


「おまえが、泣いてるのに……俺がくたばるわけ、ないだろが……うぐっ!」

「無茶はやめてください、紫月兄さま!」


 よろよろと上体を起こした紫月は、ふたたび血の塊を吐いた。

 あばらが折れ、臓器がひしゃげている事実には変わりないのだ。


「ほう、これは。化け物だな」


 みじんも賞賛していない単調なつぶやきで、緋眼の男はすこしばかりの驚嘆を表現した。


「ハッ……こちとら、だいじなだいじな妹が脅かされてるんでね……修羅にでもなってやるさ」

「なぜ、みずから苦しむ道をえらぶ?」

「一生わからんだろうよ……なぜなら俺とおまえは、まったく別の生き物だからな」


 いけない。これ以上は。

 ハヤメだってわかりきったことなのに、言葉にならない。


手前てめぇの眼は、人を人とも思っていないやつの眼だ。こころから愛する存在がいないやつなんかに、俺の気持ちがわかってたまるかよ……!」


 意識を保っていることすら奇跡だろうに、紫月は立ち上がるのだ。


「なぁ、梅雪メイシェ。琵琶が上手くなったなぁ。それで、きれいになった」


 そういう紫月は、背が伸びた。昔はちいさくて弱々しい子猫だったのに。声だって低くなって……


(あ、れ……私……)


 ふとハヤメの脳裏によぎるのは、梅雪の記憶。

 いや、違う。


「愛してる。おまえだけを、ずっと」


 ふり返った紫月は、美しく、それでいてあどけなく笑う。

 そうして、唇だけをそっと動かすのだ。

 ──早梅ハヤメ、と。


「うぅっ……あぁあッ!!」


 とたん、ハヤメはすさまじい頭痛にみまわれる。

 思い出してはいけない『なにか』が、顔を出そうとしているかのように。

 ハヤメの視界が、激しく明滅する。

 ぐらぐらと、ゆさぶられているようだ。


「おい小僧、ぼさっとしてんな、行け!」

「でも……!」


 紫月がなにかを叫んでいる。

 それなのに、くぐもってよく聞こえない。


「いいから梅雪をつれて逃げろ、憂炎!」


 だけれども、憂炎はしかと聞きとどけた。

 おのれの名を呼んでくれた、ふたりめのひとの言葉を。

 紫月は背を向けている。敵と闘おうとしている。

 だから憂炎も、もうふり返ることはしなかった。


「いこう、梅姐姐」

「ゆう、え……」


 ハヤメの腕を引いた憂炎は、これまでからは考えられないほどに力強い。

 吹けば飛びそうな朦朧とした意識のなか、ハヤメの足は意思とは関係なく土を蹴る。


「紫月……だめ紫月、いやぁっ、紫月ぇえッ!!」


 一心不乱に叫ぶ自分の声すら、くぐもっていて。


「愛してる……愛してる……おまえは生きろ、梅雪……俺の可愛い、早梅」


 紫月の悲痛なつぶやきは、のどの奥で、雪のように溶けて消えた。

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