北風の荒れ狂う夜だった。
飛び散る火の粉。身を
煙をかき分けるほどに、炎にのまれた街の惨劇が、目前にひろがるばかり。
焼け落ちた家屋の下敷きになってしまった母子。
さらに嘔吐や失神、痙攣をきたし倒れ込んだ民衆で、道端はあふれかえっていた。
ハヤメは袖で鼻と口を隠し、追い立てられるように地面を蹴る。
ひとつ、またひとつと、鼓動が消えていった。
「
先導する
上空からの偵察を任せた黒皇が、一向に姿を見せないのだ。
獣人として。その従者として。
紫月とともに決して平坦ではない道を歩んできただろう黒皇が、まさか煙を吸ってしまうなんて失態はおかさないはず。
とすれば、考えられることは。
嫌な予感が、ひやりとハヤメのこめかみを伝ったそのとき、空を
「紫月さま、
黒煙から抜け出してきた烏が、一度、二度と不規則に羽ばたいたのち、真っ逆さまに墜落する。
ハヤメは火の海のなかにいるせいで、鉄錆のにおいに直前まで気づけなかった。
「黒皇……? そんな、黒皇!」
たまらず駆け寄ったのは、ハヤメだ。
地面へ叩きつけられたちいさなからだを抱き起こし、絶句する。
黒皇の右眼に、一本の矢が深々と突き刺さっていたのだ。
「紫月兄さま、黒皇が酷い怪我を!」
「……梅雪、いい子だから静かにしろ」
ハヤメはひゅ、と息をのんだ。
雪像のごとく固まってしまったハヤメの腕を、やけに物静かな紫月がさらう。
黒皇は、いつの間にか紫月の片腕に抱かれていた。
「ご報告を、申し上げます……ここ
「黒皇」
「かこまれて、おります……南門へ行かれては、なりません……」
「もういいからだまれ」
まだ火の手と黒煙のおよばない、街はずれの雑木林まで逃れると、紫月はやわらかく根を張った木の足もとへ黒皇を寝かせた。
「脳まで傷は達していないな。だが……」
すばやく患部を確認した紫月は舌打ちをすると、懐から小刀を取り出し、
「ゆるせ、黒皇」
血を垂れ流す黒皇の目もとへ突き立てるや、ぐり、と抉る。
「うぐぅ……! がぁあっ……!」
一瞬の出来事を、ハヤメは呆然と目の当たりにした。
抜き去られた矢が、ぞんざいに放られる。
そのするどい矢じりが串刺しにしていたのは、黄金色の眼球だったろうか。
「失血死させるたぐいの毒が塗られている。まわり始める前だったがな」
ハヤメがはっと我に返ったとき、紫月は次いで取り出した針で、ぽっかりと空いたくぼみをふさぐように傷口と
その上に、二枚貝の小物入れから薬指で小豆大にすくいとった軟膏をのせ、患部に包帯を幾重にも巻きつける。
「止血と鎮静作用のある軟膏を使っているから、
「……面目、ございません……」
「くどいぞ。おとなしくくたばっておけ」
粗野な口調とは裏腹に、つむがれる声音の、なんと慈愛に満ちたこと。
「梅雪、こいつをたのむ」
否やのあろうはずもなかった。
ハヤメは紫月へうなずき返し、ぐったりと横たわった黒皇を、そっと抱き上げる。
「ありがとう、黒皇……ゆっくりおやすみ」
「梅雪、お嬢さま……」
ハヤメのやわらかい胸にいだかれ、濡れ羽色の羽毛をなでられているうちに、黄金色の
やがてハヤメへすり寄るように、黒皇は意識を手放した。
紫月、ハヤメのあいだを吹き抜けた北風が、
「南門には近づくな、とのことだな」
「……はい」
深谷の街には、二ヶ所の出入り口がある。
きのう
「
紫月の艷やかな唇が、ゆるやかな弧を描く。
「──ひとり残らず、地獄送りにしてやる」
一方で、ぐつぐつと憤怒を煮えたぎらせる藍玉の瞳が、そこにあった。
* * *
ふり返れば真っ赤な火の海でありながら、この一帯だけは対岸の火事とでも言わんばかりに、やけに静かだ。
南門へと続く一本の夜道を
やがて門とは名ばかりの、大きく
すっかり夜も更けるというのに、門番も仕事熱心ときた。ご苦労なことだ。
「
突如現れた男たちによって、あっという間に行く手をはばまれる。
ひぃ、ふぅ、みぃ……黒皇の報告どおり、ざっと二十人はいるだろう。
どこぞで見たような、ナンセンスな黒装束をまとっている。
(足音が、なかった)
いうまでもなく、通りすがりの善良な一般人ではない。
「大の男が寄ってたかって、はしたないわね」
黒皇をかばって身構えるハヤメを背に、
「日没までに十匹潰してあげたはずだけど、あんたたちは次から次へと湧いてくる
「……おとうとの仇」
「あたしが悪者みたいな言い方やめてよね。勝手に喧嘩ふっかけてきて、勝手に散ったんでしょうが。お手本みたいな負け犬の遠吠えだこと。それはそうと」
そのまま頭を下げれば最敬礼に当たるが、むろん敬意など、そこにはみじんも存在しない。
「──俺が『か弱い美女』でいるうちにしっぽ巻いて逃げださなかったんだ。死ぬ準備は万全だな?」
ほっそりとしたあごをしゃくり、男たちを
なにかが、夜闇を引き裂いた。
紫月と対峙していた男はいち早くひざを落とし、その一撃を逃れる。
が、周囲にいた仲間は、とっさの反応が叶わない。
「
語尾をさえぎるように、ヴン、と空間ごと
直後、ハヤメの向かって右手側から男たちの頭がふき飛ぶ。
「まずは、二人」
氷のごとき藍玉の視線をはずさぬまま、平手の要領で右手をふった紫月が、手首を返してもうひとふり。
またも、男たちの頭がふき飛ぶ。
「これで、五人」
頭と泣き別れた胴体が、鮮血を噴出させながら相次いで地面へくずれ落ちた。
「
絶叫する男を、一歩も動かないまま
ヒュンヒュンとかん高い風音を起こした『なにか』が、紫月の右手へ集束する。
その細い五本指には、琵琶を演奏するものと似て非なる重厚な鋼の爪がはめられていた。
「貴様、
「ご名答。この義甲で
「邪道め……!」
「なるほど。そういうおまえらは
「答える筋合いはない!」
「だろうね。吠え面だけは勇ましい」
各々の武器をかまえる男たち。
彼らよりひと回りはちいさい華奢な体躯ながら、紫月は堂々とした態度をくずさない。
それは
「こいつらに指一本でもふれてみろ──ズタズタに引き裂いてやる」
その身に、守るべきいのちを背負っているがため。