ハヤメはその夜、光の速さをも超えた。
「……なるほど、これがいにしえの5G回線……」
「ぶつぶつとどうしたんだ、俺の妹は」
どうしたもへったくれもない。
さらりと
すべてはあなたのせいである。
(超人的な身軽さだ。あれが、
軽々とハヤメを抱いた
しゃべる烏がいるくらいなのだから、宙高くを飛んだり瞬間移動をする人間がいたって、おかしくないだろう。
まぁ厳密には、紫月は半分だけ人間、なのだが。
碁盤のごとく規則正しい街並みにおいて、歪んだ『目』めがけ、紫月は上空から跳躍した。
見覚えのある路地裏がハヤメの目に入る。紫月が女行商人の
ひとすじの月光だけが頼りの暗闇。
ハヤメは壁へもたれさせるよう、紫月に下ろされる。
「紫月兄さまのことは、人でなしと呼ばせていただきます」
「心外だ。目に入れても痛くないほどおまえを可愛がっているというのに、なにが不満なんだ?」
「
「あの小僧は
「……うぅ」
汗をにじませ、ずるずると壁づたいにくずれ落ちるハヤメの正面で、紫月が片ひざをついた。
有無を言わさず夜空の散歩へ連れ出しておいて、妹の体調不良を目ざとく見抜いていた、
「吐き気は?」
「ない、です……動悸が、ちょっと」
「血液の拍出
『
ぼんやりと微熱に浮かされた病態から一変、三日目には全身が焼け
その運命を、紫月に渡された『
「体内の気を爆発的に増幅させる秘薬、それが『千年翠玉』だ。
男性にしては華奢で、女性にしては武骨な紫月の指先が、おもむろにハヤメへ差しのべられる。
「五体に気の
やがてハヤメのへその下、
「ここで気を練り、なじませる。ほとばしる龍を、支配してみせろ」
ハヤメは言われるがまま、まぶたを閉じ、余計な感覚を断つ。
「うっ……く……」
血液が、ものすごい速さで駆けめぐっている。
その流れは不規則で、荒々しい。
突然の大雨に降られ、増水した河川のようだ。
ハヤメは呼吸をととのえ、みぞおちに神経を集中させる。
荒れ狂う血液の流れを、気の流れで制御するのだ。
(落ちついて、落ちついて……)
頭、それから左右の手足。
時間をかけて、『行き止まり』をひらいてゆく。
正しく循環をはじめた血液は『濁り』がとれ、全身へと行き届く。
先ほどまでがうそのように嵐はすぎ去り、青空を映す水面のように澄みわたる感覚がある。
ハヤメがふたたびまぶたをもち上げると、藍玉の瞳が間近にあった。
「おまえの勝ちだ」
──嗚呼。
「いまだかつて、王たる毒を制した者がいたろうか。頑張ったな、よく頑張ったよ。すごい子だ、梅雪」
無性に目頭が熱いったら。
「……紫月兄さまの、おかげです……」
『千年翠玉』がなければ。
紫月が奔走し、導いてくれなければ、この身は業火に
肺いっぱいに吸い込んだ夜気の冷たささえ、ハヤメには愛おしい。
凍てつく月夜が、この身にまだ命が灯っていることを教えてくれた。
「俺にとって、おまえが世界のすべて。おまえのためならなんでもする」
淡い白光を背にしながら、紫月が藍玉の瞳をまぶしげに細める。
からかうのではない、純粋な愛情をにじませた笑みは、ハヤメの鼓動を異様に脈打たせた。
「なぁ、梅雪……ふたりぼっちに、なってしまったな」
「兄さま……?」
ふいにうつむいた紫月の表情は、影が落ちてよく見えない。
紫月がなにを言わんとしているのか、ハヤメにはわからない。
肩をこわばらせたハヤメの頭上で、ははっとわらい声がこぼれた。
「おまえだけが生き甲斐なんだ。だからおまえも、俺に縛られてくれ。これはその証だ」
紫月にそっと左手をとられたかと思えば、くすぐったい感触が。
見れば、中指に指輪がはめられていた。
白漆で塗られた表面に、
ふたつかさね合わせることで梅の花がかたち作られ、その箇所だけ銀河を閉じ込めたように煌めいている。
「きれい……これは?」
「俺の
六年前のことだ。
それは、梅雪と紫月が決別した──
「『要らない』はきかないぞ」
予防線を張る紫月に、今度はハヤメがわらってしまった。
「私も、紫月兄さまにお渡しするものがあります」
これは予想外の返しだったのか。はたとこちらを映した紫月の藍玉の瞳が、まばたきも忘れてゆらめいている。
ハヤメは
朱の刺繍糸でくくられたそれを、紫月へさし出す。
「死を覚悟したとき、したためたものです。いまとなっては、必要ないものかもしれませんが……」
憂炎へは直接言葉を遺した。
これは、紫月とはもう会えないかもしれないから、せめてもと書き連ねたもの。