暮らしは貧しかったが、雪原を駆け回り、よく笑い、心豊かに幼少期をすごした。
やがて静燕は故郷一の美人に成長し、都へ行くことになる。宮仕えをするためだ。
晴風は別れを惜しみながら、妹を送り出した。
しかし何年待てども、静燕からのたよりがない。
娘を案じた父と母は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまう。
妹の身に、なにがあったのだろうか。
両親を亡くした悲しみに打ちひしがれながらも、晴風は都へと向かう。
そこで晴風が目にしたのは、きらびやかな宝玉と色とりどりの衣で着飾った美しい女、静燕だった。
きけば皇帝に見初められ、妃となるのだという。
──どういうことだ。おまえのことを気に病んで、父も母も死んでしまった。
棺桶を買う金もなく、俺は髪を切り、それを売ってむしろに代えたのに。
晴風は涙ながらに訴えた。
──そんなことは知らない。
おまえのような小汚い坊主など、知らない。
出て行け、二度と姿を現すな!
心やさしい妹だった女は、金切り声を上げて晴風を追い出した。
人の欲にまみれ、静燕は変わってしまったのだ。
だれよりも愛していた妹の裏切りに、晴風は絶望した。
失意の果てに、晴風はただひとり、故郷にある雪山へ足を踏み入れる。
それから晴風の姿を見た者は、いない。
* * *
「
氷水で満たされた桶を、頭上でひっくり返されたかのような感覚が、ハヤメを襲う。
ハヤメの左手首の骨が、ぎりりと容赦ない
ハヤメはパッとひらいた左の手のひらを、右手で下から引っつかんだ。
「おっと」
だがハヤメが腕を大きく回すより先に、紫月に裾ごと足を払われてしまう。
ハヤメの視界に映った天井が、急速に遠のく。
ハヤメはとっさに背を丸めた。わずかに首を右へかしげ、へそを見るように。
重力にしたがい、背が床板に叩きつけられるそのとき、ふわりと
予想していた衝撃は、おとずれなかった。
「俺の手をはずそうとするだけでなく、受け身まで……ずいぶんと利口になったじゃないか」
先ほどより半音低くなった男の声が、頭上から注ぐばかり。
ハヤメは唇を噛む。紫月のほうが、一枚も二枚も上手だ。じっと息を殺し、相手の出方をうかがう。
「利口で、健気で、愚かな妹だなぁ……」
衣ずれがきこえる。
腰から下ろされ、後頭に添えられた手をそっと抜かれる感触があった。
「俺がおまえを、傷つけるわけがないだろうに」
なにを言うか。
転ばせたくせに抱きとめて、姫のように横たえて。
かと思えば、ハヤメを殺すと告げた舌の根も乾かぬうちに、傷つけるわけがないとわらって。
ハヤメは腹の底からせり上がるものを感じた。
目の前の男がなにを考えているのか、まったく理解できない。
「わが愛しのお兄さまは、たいへん悪趣味でいらっしゃる」
それっきり沈黙するハヤメに、うっそりと笑みをたたえたままの紫月が、覆いかぶさってくる。
両手首は頭上でひとつにまとめ上げられ、膝を割り入れられているために足を動かすこともできない。
無抵抗な女と、それを組み敷く男。
今後の展開など、そう選択肢はないだろう。
「愛しい妹よ。俺がおまえを傷つけることはない。おまえが俺を傷つけなかったからな」
事あるごとに「愛しい」だとか「妹」だとかを強調する紫月は、自由な右手で、ハヤメのほほにかかる
「正確には、俺のからだは、だが」
彼はなんのことを言っているのか。
ハヤメが思い出そうとすれば、こめかみのあたりがツキンと痛む。
「おまえは俺のからだに傷ひとつつけず、心をズタズタにしたのさ。だから俺も、おまえのからだにはかすり傷ひとつつけない。血の一滴も流させない」
あぁ、なるほど。
眉をひそめるハヤメのほほを、紫月はかまわず指の腹でなぞる。
ことさらゆっくり、何度も何度も。じっくりと獲物をなぶる、捕食者のようだった。
紫月は
けれど彼の目的は、梅雪を否定することではない。
「可愛い可愛い……俺の梅雪」
ほほの稜線をなぞる指が、ハヤメのおとがいに添えられる。
ハヤメを映す
「……俺にはおまえしかいなかったのに、幾度となくたしかめあった絆さえも、おまえはたやすく捨ててしまえるんだな」
「紫月兄さま、」
「だまれ」
ハヤメがろくに発語もしないうちから、苛立ちを隠さない紫月の端正な顔が距離をつめる。
唇に唇が押しあてられ、やわく歯を突き立てられた。
とたん、ハヤメの頭が真白に染まる。
紫月はなにをしているんだ。
血を分けた梅雪の兄ではないのか。
なのにどうして、なぜなぜなぜ──
「にくい……おまえがにくいよ、梅雪……あぁ、
重すぎる紫月の感情は、実の妹に向けていいものではない。
「おまえに会えない六年の月日は、地獄のようだった!」
とたん硝子の瓶が割れたように、紫月の悲痛なさけびがほとばしる。
藍玉の瞳から、ぱたぱたと、雫がとめどなくしたたり落ちている。
「どうして突然、俺を突き放したんだ……俺が半端者の、獣だからか……なぁ教えてくれ、梅雪」
皮肉なことだ。
ハヤメの脳内は混乱真っ只中であるのに、紫月の言葉の意味することを、理解できてしまうなんて。
紫月はたしかに、梅雪を愛していたのだろう。
妹に対するものとしては歪んでいて、異性に対するものとしては真っ直ぐなこころで。
──
そんな常識は通用しないことを、
「……おまえの本意がどうであれ、俺を拒むことはできない。拒んではならない。俺のすべてを受け入れなければならないんだ──『
そう、そうだった。
ならば、一族のほとんどが悲惨な死を遂げたいま、遺された紫月と梅雪が結ばれることは運命なのかもしれない。
紫月が人間の父と
「俺が憎いんだろう? それで俺を突き放したんだろう? だから俺はおまえを愛すんだよ。憎い俺に愛される屈辱を味あわせることこそ、おまえへの復讐なのさ。息もできないほど愛して愛して、骨の髄まで愛しつくしてやる。いっそ死にたくなるくらいおまえの心もズタズタに引き裂かれて、なくなってしまえばいい」
だから、と。
堰を切ったように押し寄せる紫月の言葉が、そこで途切れる。
ハヤメの薄い腹を、絹ごしになぞる指先がある。
「ここに、俺の子を」