「ふぇっ……えっ?」
目前に
(あれ……この衣、どこかで……)
いや、それよりぶつかってしまった非礼を詫びるべきだ。
ハヤメは重い首を持ち上げ、そして、こちらを見下ろす
にわかには信じられないことだが、先ほど食堂で琵琶を奏でていた人物が、そこにたたずんでいた。
しまった、と思い見渡すも、ハヤメたちのいる部屋はととのえられ、荷物が置かれた様子もない。
幸いにも、すでに客のある部屋に邪魔をしてしまったわけではないようだ。
「まぁ、ごめんなさい! お泊まりの方ですか? ごゆっくり~」
ほかの客室を見て回る、特殊な趣味の宿泊客だと解釈されてはかなわない。
(ここは使用人のふりをしよう。私は仕事をしていただけ、私は仕事をしていただけ)
ハヤメはそんな自己暗示をかけつつ、笑みを貼りつけてそそくさと入り口へ向かう。
「俺の演奏を、聴いていただろう」
そうはさせぬと頭上から降り注いだ声音は、男のものだった。
ハヤメはまたも驚愕した。中性的な顔立ちではあったが、男性だったとは。
「私のような素人目にもわかる、すばらしい琵琶でございました」
ハヤメはつとめて平静を保ち、当たり障りのない世辞を述べたつもりだった、が。
(……笑った?)
感情の読み取りづらい無表情の青年が、ふっ……と、口もとを歪めたのだ。
人形のごとく、美しい笑みだ。
「あの場には二十六の聴衆がいたが、そのうち二十五は極楽にでもまねかれたような顔をしていたよ。ただひとり、奈落の底でも目の当たりにしたようなやつを除いてな」
「さぁ、私にはなんのことだか」
「とぼけるな。おまえ、耳がいいだろう」
それは単に聴覚がすぐれている、という意味合いではない。
「俺の演奏していた曲名を知っているな。当ててみろ」
青年はともすれば女人のように端麗な容姿をしておいて、なんとも不遜な物言いだ。
「わかりません、と申し上げましたら?」
「永遠にこの部屋から出られんな」
それは困る。戻るのが遅くなれば、書の稽古をしている憂炎を心配させてしまう。
腕組みをして入り口にもたれ、無駄に長い足で通せんぼうをするきれいなお顔の暴君に、ハヤメは危うく一発おみまいしそうになるのをこらえ。
「『
お望みどおり、正解をくれてやった。
ハヤメ自身は、この曲を聴いたことすらなかった。
だが知っていた、いや、おぼえていたのだ。
このからだが。
「っくく……はは、あはははははっ!」
とたん、青年が壊れたように笑い出す。
「六年だ、ここへ来るまでに六年もついやしたぞ!」
なにを言っているのだ、この男は。
とにもかくにも、正気の沙汰ではない。
じり……とハヤメが一歩あとずされば、それより大きな一歩を踏み込まれる。
「俺はこの日を待ちわびていたぞ、梅雪」
「なっ……いッ!」
あれほど繊細に琵琶を奏でていた指が、ハヤメの細い左手首をぞんざいにつかんでいる。
(まだ後宮入りしていない……悪女の梅雪に恨みをいだく人物は、いないはず、なのにっ!)
だれだ。この男は、だれなんだ。
「
次に聞こえた声は、女のものだ。
その口調で話す『彼女』を、ハヤメは知っている。
「……
うわごとのごとく語尾を震わせたハヤメに、青年の藍玉の瞳がすっと細まった。
「よくおぼえていたな。えらいぞ、梅雪」
そして聞こえ来る声は、やはり男のものだ。
ハヤメは唐突に理解した。
『彼女』は、『彼』だったのだと。
うっそりと妖艶な笑みを浮かべた男が、硬直したハヤメの頭にふれ、
「だが、『
男の言葉は脈絡もなく意味不明なはずなのに、理解できてしまう。
そうだ、彼の言うとおりだ。
だからこそ、彼の演奏していたあの曲を耳にして、えも言われぬ感情に心がかき乱されたのだ。
「言ってみろ、梅雪」
おそろしいほどに美しい男が、ハヤメのこわばったほほを指先でなぞる。
選択肢など、ハヤメには残されてはいなかった。
「……
ハヤメのか細いつぶやきに、かたちのいい薄い唇が三日月を描く。
「そうだ、俺は紫月。おまえが見捨てた、兄だよ。あぁ梅雪、昨日おまえがたずねてきたときの俺の心情を、おまえは知らないんだろう」
するりとハヤメのほほをなで上げた男が、右の耳朶に唇を寄せてささやく。
「残念だったなぁ……唯一
後宮に入らなければ、命を危険にさらすことはない──
そんなことを、どの減らず口が言ったのか。
梅雪の人となりをよく知りもせず、どうしてのんきなことが言えたのか。
「『白雪小哥妹』は、愛する妹に裏切られた兄が、哀しみにむせびながら自決する曲だ。だが俺は、そんな犬死にをするつもりはない」
ならば、だとするなら、彼が望んでいることは。
「梅雪──俺の妹。愛するおまえを、俺が殺してやるよ」