終わった、のだろうか。
幽霊はいなくなった。でも僕はそれどころではなくなっていた。
頭の中を幽霊の記憶がぐるぐると回ってる。
事故の瞬間なんて見慣れちゃいるが、死の瞬間を見るのは初めてだった。
目の前に迫るトラックと、潰れる音、名前を呼ぶ声に薄れゆく意識――
カタカタと歯が鳴り、恐怖が僕の心を支配する。
どうせ人の記憶だ。数時間か、一日もすれば忘れるはず。
とはいえ今すぐどうにかなるものでもなかった。
僕は地面に手を付き、荒い息を繰り返す。
胃液が込み上げてきて、僕はその場で吐いてしまった。
「紫音」
慌てたような臨の声と足音が近づいてくる。
顔を上げる気力も、言葉を発することもできない。
「紫音、幽霊の記憶を吸い上げたの?」
問いかけに、僕は小さく頷く。
「……それで君が心を壊したら、俺が哀しいよ」
んなこと言われても、ああするのが一番だと思ったんだ。
なぜ幽霊がここにいるのか忘れれば、彼女がここにいる意味なんてなくなるんだから。
迎えが来るなんて思っちゃいなかったけど。
それと……僕はまだひとつやらなくちゃいけないことがある。
ゆっくりと顔をあげ、僕は振り返った。
初芝さんが、彼女を抱きしめ地面に座り込んでいるのが見える。
そのそばにリモがいて、
「日和ちゃん、大丈夫?」
と、心配そうな声で語りかけている。
気絶してんのか。ならちょうどいい。
僕はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと初芝さんたちに歩み寄った。
「紫音!」
背後から臨の声が聞こえたかと思うと、後ろからぎゅっと身体を抱きしめられた。
「今じゃなくてもよくない? そんなフラフラなのに、力使ったら倒れるよ」
そんなこと言われると心が揺らぐ。
確かに今はまだ、幽霊の記憶が僕の中にあるし気持ち悪い。
でも……
「今消せば、彼女が意識を取り戻しても自分が何したのか覚えてなくて済むじゃねぇか。生きるのに必要のない記憶なんてない方がいいだろ」
一気に言い、僕は身をよじり臨を引き剥がし、初芝さんの隣にしゃがみ大きく息を吸う。
そして目を閉じたまま動かない日和ちゃんの頭に触れた。
妊娠したことがわかり、悩んだこと。
お腹を空かせてうさぎなどを襲っていたこと。でも、すぐに飢えて、人里におりて猫を襲ったこと。
人と妖怪が幸せになんてなれるのか思い悩んだこと。
天狐がその昔人と結ばれたものの、生まれた子供はやはり人にはなれず、母親の天狐と共に山に戻らざる得なかったこと。
そうか、日和ちゃんて、伝承の天狐の娘だったのか。だから普通の狐の妖怪とは違うのか……
思い悩んでいたところに幽霊に取り憑かれたこと。
変わり果てた姿を初芝さんに見られて、泣き叫んだ記憶などが一気に流れ込んできたところで僕は日和ちゃんのアタマから手を離した。
猫や動物を襲い、喰った記憶が僕の中で繰り返されて、僕はその場でまた吐いてしまった。
「紫音君!」
「だから言ったのに……」
遠くに半ば呆れた臨の声が聞こえ、僕の身体を抱きしめた。
うっせえ、僕にはお前みたいな戦う力はないんだよ。これしかできねぇんだよ。
辛い記憶なんて一刻も早く忘れたほうがいいだろうが。
「……あ……」
「日和……さん……?」
女の人の声のあと、初芝さんの嬉しそうな声が響く。
「ここ……森……?」
「日和ちゃん、大丈夫ですか?」
「あ……なんでここにいるの?」
リモの声のあと、日和ちゃんの驚きの声が続く。よかった、何があったのか覚えてねぇってことだよな。
それがわかれば僕の役目は終わりだ。
僕は臨に抱きしめられたまま、すっと、目を閉じた。