十六時をすぎるとだいぶ辺りが暗くなる。
夕闇の中を僕たちは、天狐の山に向かって歩いていた。
山は大学病院の裏手にあるから、大した距離は歩かない。
山の周りは街灯が少ないため人通りも少ない。犬の散歩の人とすれ違う位で静かなものだった。
遠くに緊急車両のサイレンが響く。また誰か亡くなるのだろうか。
今の仕事をはじめてから、僕はサイレンの音に敏感になっていた。
サイレンの音が響いたあと、数日以内に僕が大学病院に呼ばれることが多いからだ。
ここは決して大きな町じゃないけど事故も事件も日々何かしら起きる。
というかここが大きな町じゃなくて良かったと思う。
もしここが人口何十万人もいる様な都市だったら、僕はしょっちゅう病院に呼ばれたことだろう。
いくら吸い上げた記憶を忘れるとはいえ、僕はきっと耐え切れなかったと思う。
そんなことを考えている間に、山の入り口が近づいてくる。
山の入り口はまるで異界への入り口みたいだ。暗闇の中にぽっかりと口を開けて、犠牲者を待っているように見える。
この山に住んでいる色んな異形の者の存在を考えたら、それは間違えていないかもしれない。
僕たちが捜している、猫を襲う化け物に関するヒントはまだ少ない。
もう少しなにかある見つかるといいけど。
「辺りはまだ明るいのに、山は暗いね」
「そうだな」
「ねえ紫音、俺の荷物、預かっててよ」
言いながら臨は僕にスマホや財布、鍵を差し出す。
僕はそれらを受け取りバッグにしまった。
山に入ると、降りてくる人や犬の散歩の人たちとすれ違う。
「こんな時間に山に入るなんて危ないわよ」
と、声をかけてきた人が何人もいたけど、僕たちは笑って誤魔化した。
降りてくる人はいても登ってくる者はいない。
風が吹き、枝が揺れてガサガサと音が響く。
烏の鳴き声が聞こえ一層不気味さを増している。
……ていうか、烏、うるさくね?
僕は空を見上げる。
烏の姿が枝の隙間から見える。どうやら何羽もの烏が旋回して鳴いているようだった。
「にぎやかですねぇ」
僕の腕の中でリモが言う。
「なんかおかしくねぇかな」
「烏、ぐるぐる回りながら鳴いてる?」
臨の呟きに僕は頷いた。烏の鳴く理由、何かあるんだろうか。
「ねえ紫音」
まあそうだよな。臨なら気になるから行ってみよう、って言い出すに決まっている。
僕は臨の方を向き、
「わかったよ、確かめたいんだろ? 烏が鳴いている理由」
と尋ねると、臨は笑顔で頷いた。
「うん、あんなに鳴いてるってことは何かあるかもしれないし」
このところの色々で臨が思い立ったら行動を起こさないと気が済まない、ということがよくわかったので僕は付き従うことにした。
僕たちは懐中電灯の明かりを頼りに山を進む。
烏は社の上空を飛んで騒いでいるようだった。
社に近づくにつれ、烏の数も声も多くなっていく。
そこに逃げるようにして社の方から何かが飛んできた。
「ひぃっ……」
なんて悲鳴を上げて飛んでいるのは首だった。
僕たちよりずっと年上だろう。四十前後と思われる男の首と、女の首がこちらへと向かって来たかと思うと、急に止まった。
「人間がいる」
「人間がいる」
男と女が口々に言う。
「あぁ、狸もいっしょだよ?」
「あぁ、狸も一緒だねえ。じゃああいつを何とかしておくれよ!」
怯えた様子で首は口々に言った。
……これがヒトウバン……なんだろうけどなんだか様子がおかしい。
ふたりは何かに怯えている様で、落ち着かない様子で僕らの周りを飛んでいる。
「あいつって何のことですか?」
場にそぐわない抜けた声でリモが言う。
女のヒトウバンは僕の方に近づくと、かっと白い目を見開き言った。
「あいつだよ。あいつ。この奥にいるよ! 早く何とかしておくれよ! あんなんがいたんじゃあ、いつあたしたちも喰われるか!」
正直ヒトウバンが怖いと思うけれど、逃げることもできず僕はヒトウバンの言葉を反芻する。
ヒトウバンを喰うかもしれない存在がこの奥にいる?
……それってヤバいやつなんじゃあ……
「この奥に行けば会えるんですね!」
臨のテンション高い声が響き、僕は覚悟を決めるしかないと悟る。
僕に後戻り、という選択肢はないんだ。
ヒトウバンは再び僕らの周りを飛び、
「早く早く」
「早く何とかしておくれ」
と言い、僕たちが来た方角へと飛び去ってしまった。
後に残された僕と臨は顔を見合わせた後、リモの方を見た。
「あいつって誰?」
僕が言うと、リモは大きく首を傾げた。
「心当たりありませんねえ?」「でもヒトウバンの言っていたこと考えると、あいつっていうのはリモの知り合いなんじゃないの?」
ヒトウバンは、狸も一緒だ、じゃああいつを、とか言っていたと思う。
狸がいるから何とかしろ、っていう風に聞こえたからするとそのあいつ、というのはリモの知り合いの可能性が高いんじゃないだろうか。
「まあ、行けばわかるだろうし、行こうか、紫音」
僕は正直気が進まないけど、戻るのも怖いので仕方なく前に進むことにした。