その日は唐突にやってきた。
高校2年の夏。
「ナイッサー!」
凛が放ったサーブは相手コートの奥に突き刺さり、見事なサービスエースとなる。観客席から大きな声援があがった。
「やっぱり凛に助っ人頼んでよかったわ」
「デカいしコントロール良いし、バレーボール部入ろうぜぇ〜」
「俺はフリーダムなの!」
チームメイト(一時的にだが)にそう言われて、凛は満更でもない表情をしながらハイタッチをする。
「凛くーん!」
見学に来た女子生徒の歓声が喧しい。それもそうだろう、風間凛はそれはそれは容姿端麗な男であった。日本人では他にいないであろう赤髪に赤い眼、185cmを超える背丈に綺麗についた筋肉。運動神経抜群で、なにかのスポーツに注力していればオリンピック選手も夢ではなかったであろうとまで言われるほどだ。女子生徒を沸かせるには十分な要素が揃っていた。
「凛だけモテやがって、ちくしょうめ」
バレーボール部の部員が凛を小突き、笑いながら言う。凛は男にも好かれる男であった。竹を割ったような性格で、よく他人を見ていて、他人を下げることがない。そもそもこんな美丈夫に褒められて悪い気がする人はそういないであろう。
試合は見事凛のいるチームの勝利に終わった。さて、明日はサッカー部の助っ人だったかな、と凛は頭の中でスケジュールを確認しつつ、バレーボール部の面子に別れを告げ、己の片割れである
凛には双子の弟がいた。運動神経抜群な凛とは正反対に、凛の片割れ…双子の弟である真は勉学に愛された男だった。
その実力は、数学オリンピックでの優勝や、他様々な模試の結果などから明らかであった。また、情熱的で良くも悪くも感情的な凛とは違い、真は常に冷静で大局観的な人間だった。
彼はその日、化学部の活動に参加していた。夏休み明けに行われる文化祭での出し物を考える会に(半ば強制的に)参加させられていたのだった。まだまだ期間はあるが、早めに決めて案を練りあげたいというのが化学部の総意だったため、夏休みの1日を返上して登校してきたのだ。
「やっぱりスライムが定番かなぁ」
「危なくないし子供はみんな好きだしね」
「子供の頃作りまくったわ〜」
化学部のメンバーが和気藹々とそんなことを言っている中、バン!と音がして教室の後ろの方の扉が開いた。
「真!帰るぞ〜」
凛だった。バレーボールの試合が終わり、化学部の活動場所である理科室に向かってきていたらしい。真が立ち上がるそぶりを見せると、化学部のメンバーたちが慌て始めた。
「待って待って」
「まだ出し物決まってないよ〜!」
その言葉に真は少し逡巡する様子を見せるが、結局立ち上がって鞄を手に取る。
「ごめん、今日は用事があるから」
「すまんな!今日は母さんの誕生日なんだ!」
化学部のメンバーもそう言われては引き留めにくいらしく、宙に伸ばした手が行き場を無くしている。その様子を見て真は涼やかな目元を飾る眼鏡を押し上げつつ、ハハハと笑い、
「出し物には絶対協力するから、安心して」
と言った。化学部のメンバーはそれで一安心したらしく、お見送りモードに移行したようだった。
「じゃあまた明日!」
「出し物、絶対だぞ!」
真はその白魚のような手をひらひらと振って別れを告げ、凛の方に走り寄る。
「ケーキ、取りに行かなきゃね」
「ああ、飾り付けもしないとな」
真は凛を少し見上げる形で話す。2人は双子だが、二卵性双生児だからかあまり似てはいない。真は175cmほどの体躯で非常に薄っぺらい身体をしている。また、凛の赤髪と赤い眼と対を成すかのように青髪に青い眼をしていた。また、凛は日焼けした小麦色の肌をしているが、真は血管が透けて見えるような白い肌をしている。
校舎を出ると、容赦の無い日差しが2人を苛んだ。その日の気温は35℃を超えており、クーラーの効いた教室から出てきた真には暑さが厳しかったようで、目を細める。
「地球温暖化なんて、ほんと洒落にならないね」
「暑いとパフォーマンスも落ちるしなあ」
そう駄弁りながら2人はケーキ屋を目指す。駅前の人気ケーキ屋のケーキは、母親が食べたいと言っていたものだった。駅前が近付くにつれ人通りが多くなってくるが、凛の存在感が大きいため2人がはぐれることはない。
「着いた着いた」
「帰るまでにケーキが溶けないだろうな…?」
可愛らしいショーケースの前に男子高校生が2人。少し気恥ずかしいが、愛する母親のためだ。致し方あるまい。2人して腹を括って店員とやり取りをする。無事誕生日ケーキを受け取ると、ケーキ屋を後にする。
また暑さの中に放り込まれるが、なぜだか少しホッとして息をすると、家路へ着こうとした。
真は手に持ったケーキが傾かないよう動きが少しぎこちなくなっていて、凛は少し笑った。
「母さん、喜ぶといいんだけど」
「きっと喜んでくれるさ」
母親の喜ぶ姿に期待を膨らませながら家路を辿っていると、
「危ない!」
という声が聞こえた、と思った瞬間。
身体にとてつもない衝撃が走った。
あれ、ケーキが潰れている…。
何が起こったのかわからないまま、凛の意識は途絶えた。
目が覚めた。目が覚めて一番最初に見たのは、見慣れない天井だった。
「ぅ…?」
声が出にくい。なんだ?なにかチューブが繋がれている。脚の感覚が希薄だ。一つ一つ体の感覚を確かめていく中、バッと目に入ったのは母親の姿だった。
「凛!」
泣いている。なぜ?なんで体が動かないんだ?涙を拭いてやらねばならぬのに。父親もまた泣いていた。どうして…
(兄…ん、目…覚め…た?)
真の声だ。そうだ、真はどうした?真はどこだ。
父親が涙を拭き、話しかけてきた。
「凛、事故に巻き込まれたのは分かっているか?」
フルフルと首を振る。事故?あれ、確かケーキが…誕生日、どうなったんだっけ…。
「お前たちは事故に巻き込まれて…お前は助かったが…真は…」
ケーキが潰れていた。また買い直さないと。
「真は死んでしまった。即死だったそうだ」
………うそだ。
目の前が真っ暗になった気がした。だってさっき、声が聞こえた。あれは何だって言うんだ?
「…ぅそだ…」
声が掠れて出ない。なんで真が?事故ってなんだ。何が起きたんだ。
(に…さ…)
また声が聞こえる。真の声だ。
「こぇが…する…まことの…」
そう言うと、両親は困ったような、悲しそうな顔をした。
「突然のことで錯乱してるんだろう。とにかく今は身体を治すことを考えてくれ」
父親はそう言って、部屋を出て行った。看護師か医師を呼びに行ったのだろうか。母親はその場に残ったが、何を言えばいいのか悩んでいる様子だった。
「ごめんなさい…私のためにケーキを買いに行ったばっかりに…」
母親がボソリと言う。彼女の顔は大層やつれ、疲弊しきっているようだった。それは恐らく、今言ったようなことで自分を責め続けたからだろう。自分を責めないでほしい、と伝えたいが、自分が同じ立場ならそう言われても自責の念から逃れることはできないだろう。
「俺が…守れなかったから…」
徐々に声が出るようになってきた。
「俺は…真のお兄ちゃんなのに…守れなかった…」
啜り泣く母親が顔をあげる。その顔は悲壮感に満ちていた。
「あなたは何も悪くない!凛だけでも生きていてくれて、私達がどれだけ…どれだけ救われたか…!」
(そ…だよ…に…さ…いきて…あり…とう…)
母親の声と、真の声がする。どうして真の声は誰にも聞こえてないんだ?不明瞭だが、確かに声がしているのに。
そこへ、医師がやってきて、俺と母親との会話は途切れた。俺の怪我の具合から言って、目覚めたのは奇跡に近いらしい。リハビリは厳しいが、頑張れば日常生活に戻ることができるであろう、ということも。
しかし、俺の気持ちは晴れなかった。弟をみすみす死なせて、自分だけ生き残ってしまった。事故の時、何もできなかった。もう少しでも早く気付いていれば、真は今もここに居たかもしれないのに…!
リハビリは順調に進んだ。ギプスが取れた後の足や腕は自分のものとは思えないほど痩せ細っていたが、リハビリをするうちにそれも元に戻っていった。お見舞いに来たクラスメイトたちは真の死を悼みながらも、俺を元気付けるように明るく振る舞ってくれた。ギプスには大量のメッセージが書かれ、母親は外すのが惜しいね、なんて言うくらいであった。
じきに、真の声は日常になった。医師や家族に言えば錯乱している、だとか幻聴だとか言われるのでもう相談しないことにしたが、確かに聞こえるのだ。その声は俺を呼ぶだけのものが多かったから、俺はできるだけ無視して生活することにしていた。向き合うには俺の精神が弱過ぎたのだ。
日が経つ毎に、真のいない日々が日常になっていくのが恐ろしかった。だけど事故を起こした犯人は危険運転過失致死で訴えられたし、どんどん日常は進んでいく。
そんな日常に1人だけ取り残されているような気がして、しかしながら日常に馴染んで仕舞えば真を忘れることに繋がるのではないかと怖くて、俺の精神は徐々に蝕まれていった。
俺は高校3年になった。真がいなくなって半年と少しが経った頃だった。クラスメイトは最初腫れ物を触るかのような扱いで俺と接していたが、今や普通に話しかけてくる。まるで真なんていなかったかのように。
俺の身体はすっかり元通りになって、前みたいに助っ人の依頼が来たりもして、他の人から見たら恐らく充実した学生生活を送っていた。でも俺はそんな生活を送る俺を客観的に見ているだけのようで、あまり生きている実感というものが生まれてこなかった。
俺はこのまま、真がなれなかった成人になって、社会人になって、結婚して、その後の人生を歩んでいくのだろうか?弟1人守れなかったのに。今も真の声は聞こえるのに。
それは俺にとって途轍もなく恐ろしいことだった。どうしても許しがたいことだった。
だから…だろうか。俺は全てから逃げることにしたのだ。
通学路の途中にある雑居ビル。ここの屋上が開放されていることはリサーチ済みだった。ギィ…とドアを開けると風が吹き込んでくる。春の爽やかな風は、俺の気分を逆撫でするように吹き抜けていく。なんでこんなことになったのだろう。なんで俺たちだったのだろう。そんなことを考えても、答えが出ようはずもない。
(や…て!に…さん!)
最早日常となった真の声が聞こえてくるが、俺はそれを振り切るように首を振る。これが俺の幻聴ならば、それに縋って生き続けることも出来たのかもしれない。しかし、違うのだ。俺の生み出した幻聴ではないから、都合の良いことは言ってくれない。この聞こえる声が何だろうと、随分と酷いことをすると思う。
「…疲れたな」
柵に近付きながら呟く。ああ、本当に疲れた。未だ俺を腫れ物のように扱う両親も、すっかり真を忘れてしまったようなクラスメイトたちも。ひどく我儘な話だが、とても疲れたのだ。
柵を越えて下を見る。通行人はいない。万が一にでも誰かを巻き込まないようにしないと。それではあの犯人と同じだから。
「ごめん、父さん、母さん」
ふわり、と身体を投げ出す。一瞬の浮遊感と、重力。身体が地面に叩きつけられる前に、俺は意識を失った。
そう、俺は意識を失った。そして死んだはずだったのだ。万が一にも生き残れるような高さではなかった。なのに…ここはどこだ?俺はどうして生きている?
周りは広い花畑のような場所だ。まさか天国にでも来たのか?天国が実在したのなら、真に会えるだろうか。いや、それにしては狭い空間のようだ。ならばここは一体…?
「何にも分かんないって顔ね」
ふと、声が聞こえた。鈴が転がるような、綺麗な声だ。声が聞こえた方を向くと、シンプルなローブを纏った、長い銀髪に碧い眼をした少女が立っていた。
「…君は…?」
「私はエレナ。女神エレナ。あなたをここに喚んだのは私よ」
とても可愛らしいが、どこか老成した雰囲気を持つ少女…エレナはそう言うと、パッと何かディスプレイのようなものを展開した。オーバーテクノロジーなその動きに驚きつつ、疑問を投げかける。
「呼んだって…」
「単刀直入に言うわ。私たちの世界を救って欲しいの。」
「は…?」
何を言っているんだ。世界を救う…?馬鹿馬鹿しい話だ。そんなものは小学生の頃に卒業している。
「あなたはね、特別な力を持つ勇者なのよ」