――ルウルウ。
誰かが呼んでいる。ルウルウはやっと目を開ける気になった。聖杯をキャッチした勢いで閉じてしまった目を、おそるおそる開ける。
真っ暗だ。前後左右、上下もわからない。自分の手の先さえも見えないほど、暗い。ただ、自分が倒れていたところに地面の感触はある。ルウルウは地面に手をついて身を起こした。
「ここ……は」
ルウルウがあたりを見回すと、変化が起こった。
見上げた先に、無数の星が現れる。大粒の星、粉のような星々。白く輝くかと思えば、さまざまな色がまたたいている。
星々の輝きによって、ルウルウはおのれの手先が見えるようになった。ハッとした。いつのまにか、手の中に聖杯がない。トオミが投げ上げた聖杯を、確実にキャッチできたはずだ。転んだ拍子に、取り落としたのだろうか。
「聖杯! 聖杯は……どこ!?」
ルウルウは立ち上がろうとして、
「あ……!?」
ルウルウの視界に、彼女を支える者の顔が映る。
――濃灰色のウェーブした髪、緑色の瞳、やさしげな容貌。ルウルウの記憶に、懐かしさを呼び起こす女性。
聖杯の魔女タージュ、その人だ。
「ルウルウ」
心配そうな表情で、タージュはルウルウの手を取っていた。幾日も幾日も離れていた、懐かしい温かさがそこにはある。
「ルウルウ」
「お師匠様……」
ルウルウは立ち上がれなかった。驚きが腰を痺れさせ、へたりと地面に座り込んでしまう。タージュは無理にルウルウを立たそうとはせず、そのままルウルウの前に座した。
「大丈夫ですか、ルウルウ?」
「お師匠様……! あ、あ……」
ルウルウは混乱する。これは魔族が見せている幻か。それとも老賢者アシャのようないたずらか。それとも自分の記憶が見せている夢だろうか。
「ルウルウ」
目の前のタージュが話しかけてくる。懐かしい声音に、ルウルウの胸中はいっぱいになる。敬愛する魔法の師、育ての師、失っていた家族――タージュがそこにいる。多くの喜びと、一抹の無念がルウルウに押し寄せてくる。
「お師匠様……! 本当に……お師匠様、ですか?」
「苦労をかけたようですね、ルウルウ」
ルウルウの言葉に、タージュは深いため息とともに答えた。
タージュとて、理解しているだろう。ルウルウが旅のあいだ、苦労を重ねてしまったことを。それがルウルウの言葉の端にも表れていることを。
「私はタージュ、その魂の一部と言ったほうが正しいでしょう」
「お師匠様の……魂の一部?」
「私はいま、聖杯の守護霊として存在しているに過ぎません」
「やはり、お師匠様の肉体から魂だけを離したのですか?」
ルウルウの質問に、タージュはうなずいた。
「ルウルウ、誰かにそれを教わったのですか?」
「老賢者アシャ様から……」
「そうですか、アシャ殿が。彼女なら私のことも見通せたことでしょう」
タージュはアシャを知っているようだ。言葉を続ける。
「ルウルウ。強くなりましたね」
「お師匠様……」
「昔のあなたなら、きっと……泣いていたことでしょう」
心当たりがあって、ルウルウはすこし赤面した。アシャが化けたタージュに騙されて、泣いたこともある。だがいまは涙も出ない。冒険が、ルウルウを強くしたのだろうか。
「お師匠様は、いま魂だけと……体はどうしたのですか?」
「いま、私の肉体がどうなっているか、私にはわかりません。おそらく魔王がどこかに置いていると思います」
「…………」
いまだ直接会ったことがない魔王――ルウルウは思い切って、タージュに尋ねる。
「お師匠様は……どうして、魔王のところに?」
「…………」
ルウルウの質問に、タージュは沈黙した。答えられないのではない。タージュは口を開いては閉じる。上手く言葉が出ない上に、言葉を選んでいるようだった。
「ゆっくりでもかまいません」
ルウルウは告げた。
「わたし、どんなことでも受け入れるつもりです」
「ルウルウ……」
ルウルウの言葉に、タージュは深い表情になる。喜びと憂いを含んだ顔だ。ルウルウの成長を感じ取り、またルウルウの苦労を慮っている。
「私は」
しばしの沈黙ののち、タージュがようやく言葉を紡いだ。
「私は……魔王と強い絆を結んだ者なのです」
「それは、どういう?」
「見せましょう、ルウルウ」
タージュは立ち上がった。黒い地面に両足をつけ、星々がきらめく周囲にむかって手をかざす。さらさらと水の流れる音がして、ルウルウの目の前に明るい光景が広がった。
「あ、トオミさん……!?」
先程までいた庭が、映し出される。ルウルウは前に出ようとして、見えない壁に遮られる。まるでガラスの中から現実世界を眺めているようだ。
トオミがあの庭の
あたりの庭は水に濡れ、草木もめちゃくちゃに倒れてしまっている。ジェイドたちの姿が見えない。
トオミが地面に転がった器を手に取る。フタのされた聖杯だ。ルウルウがキャッチしたはずの聖杯は、地面に無傷で転がっていた。
「ふふ、ふふふふ……」
トオミが顔を前に傾けて笑う。彼女がかぶっていたベールが、するりと地面に落ちる。
「どうだ、魔王の
トオミが低い声で言う。結い上げられたその髪は、白い。否、ただの白ではない。わずかにアイボリーがかって、複数の色のきらめきを含んでいる。
――真珠色だ。
「なかなかにおもしろかった。ここ数百年で一番おもしろい――」
笑うトオミの瞳は、青かった。淡く青い、青空のような色。淡青色の瞳だ。
ルウルウと同じ色が、そこにはあった。