聖杯の魔女タージュの隠れ家が焼かれて、幾日か。
タージュの弟子ルウルウは、剣士ジェイド、エルフの道化師カイルとともに西へと旅立った。弓手ランダ、竜人戦士ハラズーンらを仲間とし、魔王の眷属とも戦った。
レークフィア王国にて、魔王の手先を倒したルウルウ一行。
彼らはレークフィアの王宮を出立した。魔王の居所が知れたからだ。
レークフィア王国西北にある、シュヴァヴ山。聖山とされるその山に、魔王はいる。しかもかの者の
ルウルウは怪我を負っている。魔王の手先を倒した折りに、国王をかばって負った傷だ。宮廷魔術師たちが治療してくれたが、本調子ではない。だが、行くしかない。わずかな時を
「シュヴァヴ山に城を築くとは、盲点でした。かの山は古くから聖域であり、人は立ち入りません」
宮廷を出立したルウルウたちを案内するのは、レークフィア王国近衛騎士団長アッシュである。彼もまた、魔王の悪意によって身内を
「……あの山です」
シュヴァヴ山が見えてくる。シュヴァヴ山は、まるで天空に向かってそびえ立つ、壁のようである。まだかなり距離があるが、峻険な山であることがわかった。今日は麓に到着するだけで日が暮れるだろう。
とはいえ――旅は穏やかな道のりだった。魔獣たちの襲撃も、魔族の妨害もいっさいない。まるで彼らが息をひそめてしまったかのようだ。
「シュヴァヴ山の麓には、霊廟があります」
アッシュがシュヴァヴ山の麓について説明する。ルウルウは首をかしげた。
「霊廟……とは?」
「小さな神殿のことです。シュヴァヴ山の精霊たちを鎮め、祀る場所だと聞いています」
その霊廟で一夜を明かし、山へ入ることになる――とアッシュは言った。
数時間後、ルウルウ一行はその霊廟へと到着した。
整えられた敷地に、白い石造りの堂がある。堂の敷地にはシュヴァヴ山からの影が落ちて、もうかなり薄暗い。堂は石造りとはいえ、歴史を感じさせる古びた佇まいだ。中に入ると、きちんと清掃されている。
「地元の民や巡礼の者たちが、掃除していったのでしょうね」
堂の中には、これも石で造ったらしき祭壇がある。祭壇には、大きな石像が置いてある。ひとに似せた坐像だ。石像の髪は長く、耳も長く伸びている。うっすらと開いた目が、なにかを見つめるように下を向いている。
耳の長いひと――エルフの姿を模した石像に見える。
「エルフの像……?」
「シュヴァヴ山は、もともとエルフたちの霊地だったと言われています」
ルウルウの疑問に、アッシュが答えた。「霊地だった」――つまり、失われた霊地ということだ。この石像は、霊地を守るエルフをかたどったものだろうか。
ルウルウたちはカイルを見やる。道化師カイルはエルフだ。ここへ来て石像を見れば、なにか思うことがあるかもしれない。しかし、皆の視線を集めたカイルは、ぷいと横を向いた。
「何千年も前の話でしょう? さすがにね~……」
カイルは言葉を濁した。歳若いエルフの彼では、失われた霊地と言われてもピンと来ないようだ。古い霊地のことは知らない、ということだろう。
「でもさぁ、この像……」
エルフの石像を見ながら、ランダが首をひねった。
「なんだか、カイルに似てないかい?」
「に、似てないよ!」
「ええ~? ちょっと同じポーズしてみなよ!」
ランダがカイルのうしろに回り、カイルの腕をつかんで石像と同じポーズをさせようとする。皆が笑い、緊張感がほぐれる。
アッシュがルウルウ一行に一礼する。
「ここまでお疲れ様でした。襲撃も妨害もなかったのが、さいわいです」
「なぜこうもすんなり来れたのだ?」
アッシュの言葉に、ハラズーンが疑問を呈する。たしかにレークフィア宮廷からこの山まで、一切の障壁がなかった。襲い来る魔族も魔獣もいなかった。不気味なほど、平穏な旅だった。
「魔王は……」
ジェイドが魔王の言葉を思い出す。
「魔王はルウルウを待っている、と言っていた。本当にそのつもりなんだろうな」
ジェイドが答えると、皆がうなずいた。魔王はルウルウたちを待っている。そのため、魔族たちが妨害することを一切禁じた――としか思えない。そこにどんな意図があるのか。ルウルウ一行は道すがら考えたが、誰も結論には達していない。
ルウルウはアッシュを見上げる。
「アッシュ殿、案内ありがとうございます。助かりました」
「いえ、礼には及びません。当然のことです」
アッシュは丁寧に一礼した。彼の旅は終わろうとしている。アッシュはこの石堂で一泊し、翌朝から王都へ戻らねばならない。彼は近衛騎士団長――つまり王の警護という任務もある。また宰相が不在となった王都を、長い期間は空けられないらしい。
「よし、日が暮れる前に火をつけよう」
一行は、宿泊の準備を始めた。
石堂の中には、火を焚いて囲むための部屋がある。火を焚く場所には、床に石を板状に張って、区切ってある。本来は、夜通し火を焚いて祈りを捧げる巡礼者のための設備らしい。春とはいえこの肌寒い中、一泊するのに便利な部屋だ。
薪となる木の枝を調達し、火を焚く。パチパチと音が立ち、温かい空気が生まれる。焚いた火で湯を沸かす。茶を淹れる。西方風の赤い茶だ。茶には、王都から持ってきた蜂蜜を入れて飲む。
「あったかくて……甘い」
ルウルウはほっとする気持ちになった。
香ばしい茶の香りに、蜂蜜の甘みが加わる。全身がポカポカと温まるようだ。
茶で喉を潤したら、パンで腹を満たす。すこし堅いパンの中には、ドライフルーツが多く練り込まれている。そのパンを薄切りにして火であぶる。すると茶とはまた別の香ばしさが生まれて、美味だ。
「山に入れば、こんな食事さえできなくなるだろうな」
「よく味わっておかないと……ってことだねぇ」
シュヴァヴ山の中は、おそらく魔王のテリトリーだ。いまはなんの障壁がなくとも、いつなにが起こるかはわからない。魔王の悪意には予想すらつかないのだ。
「魔王、ルウルウに会ったらどうするんだろうね?」
「うん……」
カイルの疑問に、ルウルウは曖昧に答えた。彼女自身、なにが起こるのかはわからない。魔王は聖杯を持っているが、その聖杯はタージュによって守られている。タージュを助けることができれば、魔王の優勢さは衰えるだろうと予測はできた。
「なんとかしてきた。今度も大丈夫だ」
ジェイドの言葉は、ルウルウを励ます力強さに満ちていた。彼ほどの剣士ならば、冒険者が魔王のもとに至るための困難さは想像できるだろうに。それでも彼は、ルウルウを励ますことを優先した。その気持ちが、ルウルウの心を嬉しくさせた。
「ルウルウ、忘れずに薬を」
「うん」
ジェイドの言葉で、ルウルウは思い出した。怪我をおしてレークフィアの王宮を出て幾日か、彼女は薬を飲んでいる。宮廷魔術師が施してくれた、魔法薬である。傷の痛みを抑え、治りを早くするという小粒の丸薬だ。
ルウルウは冷ました茶で丸薬を飲み込む。さまざまな薬草を練り上げた丸薬の風味は、決して快いとはいえない。だがルウルウはどこかホッとする。傷の痛みがあるかないかだけで、どれほど勇気を振り絞れるかが変わってくる。もし痛みがあれば、勇気も萎えてしまう。それを防げるのだ。
「ふう……」
「具合はどうだ?」
「大丈夫、ありがとう」
ルウルウの返答を聞いて、皆が安堵する。
その日も夜が更けていく。見張りを立て、交代で休む。いままでの旅でずっとやってきたことだ。それも明日からはどうなることか。
ルウルウはすこしドキドキしていた。目を閉じて、不安と期待の中で眠った。静かな静かな夜が過ぎていく――。