「ん……」
ルウルウは顔を上げた。どれくらい時間が経っただろうか。
書物の部屋には窓がなく、正確な時の頃はわからない。だが、昼食を済ませてからかなり時間が経ったはずだ。
「カイル、どう……?」
「くぅ~……くぅ~……」
ルウルウがカイルの方を見ると、寝息を立ててテーブルに突っ伏している。難解な魔術書を読み疲れてしまったのだろう。
「ふう……」
ルウルウもため息をついた。自分も疲れている、と感じる。本を読みすぎて、頭の中にさまざまな魔法の記述が渦巻いている感覚だ。
ルウルウにとって、書物は世界を教えてくれるものだ。タージュの蔵書を読んで、世間で起こっていることを知った。魔法も覚えた。いまやそのすべては灰燼に帰した。家を焼かれたことを思い出すと、いまでもつらい思いになる。
「さて、と……」
ルウルウはそっと席を立った。カイルを起こさないように、書物を棚に戻していく。
「ん……っ」
ルウルウは背を伸ばした。書架の高いところに、戻したい本が入りそうで入らない。つま先立ちの体がぐらぐらする。
「お疲れ様です、ルウルウ殿」
背後から声がかかり、ルウルウが戻そうとしていた本が、誰かの手に取られる。そのまま本は、スッと高い書架に収められた。
「あ……っ、アッシュ様」
「ふふ、失礼しました。戻すのに苦労されておられるようだったので」
ルウルウに笑いかけたのは、近衛騎士団長アッシュだった。彼が本を戻してくれたのだ。こうして見ると、背が非常に高い――とルウルウは感じた。アッシュはジェイドよりもすらりと長い体躯をしている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
アッシュはちらりとカイルの方を見やった。カイルはすやすやと寝息を立てている。
「カイル殿も、お疲れのご様子」
「す、すみません……」
「いいえ、こちらの無理なお願いですから」
アッシュの口ぶりに、ルウルウは違和感を覚えた。
「無理なお願い、とは……?」
「そのままの意味です。宮廷魔術師たちでも解呪できなかった呪いを、たった数日で解けるとは……私も思いません」
ルウルウはドキリとした。アッシュには、ジェイドたちと話していたことが見抜かれている。
「ですがその数日で、知ることのできる事柄もある」
「……?」
アッシュの瞳が、ルウルウの淡青色の瞳を鋭く見やる。
「ルウルウ殿は、聖杯をご存知ですか?」
「は……はい」
ルウルウは正直に答えた。どんなものか見たことはない。だがルウルウは「聖杯の魔女」タージュの弟子である。老賢者アシャからも、聖杯については聞いている。知らない、とは答えられない。
アッシュがさらに質問を重ねる。
「いま、聖杯はどちらにあるか、ご存知で?」
「聖杯は……魔王が持っていると、聞いています」
「聖杯の魔女タージュ殿ではなく?」
アッシュの問いに、ルウルウは混乱する。当惑する気持ちが湧いてくる。彼が本当に尋ねようとしていることは、質問の中にはない気がする。
困惑しながらも、ルウルウはふと気づいたことを尋ね返す。
「……お師匠様を、ご存知なのですか?」
「ええ。といっても、直接お目にかかったことはありませんが」
アッシュが柔和にほほえむ。だがその瞳には鋭い光が宿っている。彼は言葉を続ける。
「タージュ殿の奉仕していた神殿は、我が国にありますので」
アッシュの言葉を聞いて、ルウルウはすこしだけ合点がいった。
聖杯とは、もともと創造神のものであり、のち神殿に収められていた。タージュは神殿に奉仕する巫女であった。だが聖杯が遺失し、タージュは神殿にいられなくなった。
いまや聖杯は魔王のもとにあり、タージュは聖杯を守るべく魔王のもとに囚われている。
――それが、ルウルウの知るタージュと聖杯の行方である。
「タージュ殿は、唯一無二の巫女。多くの魔法を使いこなし、偉大な聖杯への奉仕者であったと伝わっています」
アッシュが語るのは、神殿に奉仕する者たちの言葉だろう。タージュはなかば伝説的な巫女であり、それゆえに神殿を追放されたのちは「聖杯の魔女」と呼ばれた。その称号には敬意と畏怖、そして懐疑が含まれている。
「いまだにね、タージュ殿が聖杯を持っていると思っている者は多いのですよ」
「聖杯は魔王のもとにあります。お師匠様は、魔王が聖杯を使えないように守っているのだと……賢者様からうかがいました」
「ほう」
「肉体から魂を離し、聖杯とともにあるのだと……」
ルウルウは内心ドキドキしながら、アッシュに聖杯の行方を語る。
「タージュ殿が、聖杯とともに……なるほど」
「アッシュ様、どうして聖杯のことをお尋ねになるのですか?」
「そうですね」
アッシュがニッコリと笑う。
「我が国は、難しい問題を抱えています」
ニコニコと笑いながら、アッシュは深刻な問題を語り始める。
「王政と神殿との相性が悪くなっているのです。神官が政治(まつりごと)に参加する是非や、神殿の軍備とその費用、神殿やその奉仕者たちが納めるべき税など……数え切れないほど、問題がある」
「それは……」
ルウルウには想像もつかない、社会の問題。
「王政に反発する神官たちさえいます。彼らは、神殿の権威を取り戻すべく、聖杯を探している――という情報を、私たちはつかんでいます」
「え……!?」
ルウルウは驚いた。
「だからね、ルウルウ殿」
アッシュが身をかがめ、ルウルウの視線をのぞきこむ。
「神殿の者たちより先に、私たちは貴殿らをお迎えしたのです」