霧の中、ルウルウの前に現れた女性。
ルウルウの師匠にして、育ての親。聖杯の魔女タージュが立っている。濃灰色のウェーブした髪、緑色の瞳、やさしげな容貌――すべて、ルウルウの記憶と一致するタージュの姿だ。
「ルウルウ、よく来ましたね」
「お師匠様……」
深みのある優しい声が、ルウルウに語りかける。
ルウルウの頭は混乱している。なぜここにタージュがいるのか、わからない。二年のあいだ、どうしていたのか。ずっとこの森に隠れていたのだろうか。導きの賢者のことは知っているのか。尋ねたいことが、いくつも頭の中に浮かぶ。
そんなルウルウの混乱を見透かしたように、タージュが語りかけてくる。
「つらい想いをさせました。ルウルウ、こちらにいらっしゃい」
「お……お師匠様!」
ルウルウの頭の中では、なにもかも考えが追いつかない。だが体が動いていた。ルウルウはタージュに駆け寄り、抱きついた。
「お師匠様、お師匠様……!!」
ルウルウの淡青色の瞳から、涙がこぼれた。涙の温かさが、頬に伝っていく。
タージュは黙って、ルウルウを受け入れた。ルウルウの真珠色の髪を、優しく撫でる。ルウルウが泣いたときに、いつもしてくれた仕草だ。タージュの手は、温かい。
「私の自慢の弟子、ルウルウ。よく頑張りましたね」
「お師匠様、お師匠様……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「謝らないで、ルウルウ。大丈夫ですよ」
タージュは、泣いているルウルウを優しく慰める。ルウルウはホッとするものを感じた。タージュは楽しく、ときにユーモラスで、とても優しい人だ。泣いているルウルウを、いつも穏やかに慰めてくれた。なにもかもを見通したように、導いてくれた。
「ルウルウ、どうしてここに?」
「お師匠様、それは……」
ルウルウはタージュに寄り添ったまま、語り始める。
薬作りをしていたこと。そこに
「お師匠様、本当にごめんなさい……」
ルウルウは詫びた。魔族に焼かれたルウルウの家は、タージュの家でもあった。タージュが残してくれていたものがたくさんあった。それをみすみす失ったことは、謝らなければならないとルウルウは思っていた。
「もし責めるなら、わたしが責を負います。ジェイドやカイルのせいじゃない……」
ルウルウは悲痛な思いで、そう言った。事態の見かたによっては、ジェイドやカイルが魔族につけられた責任がある。だが、そうではない――とルウルウは言いたかった。家を捨てて逃げた、その責任はおのれにもある。ルウルウはそう思っている。
「…………」
タージュは黙って、ルウルウの語るままに聞いていた。そして聞き終わると、ひとつうなずいた。
「よくわかりました……本当に、いろいろあったようですね」
「はい……」
ルウルウはしゅんとうなだれた。悲しく、恥ずかしい気持ちになる。
タージュはルウルウを座らせた。たき火を焚いていた場所に、タージュは手をかざす。小さい声で呪文を詠唱すると、ポッと火がともる。簡単な火付けの呪文だ。
小さく揺れるたき火を見ながら、タージュは語りだす。
「家が失われたことは、仕方がありません。緊急のことだったのですね」
「はい……」
「……薬の数々は惜しいものでしたが」
タージュもひどく残念そうに言った。
彼女の言うとおりだ。ルウルウとタージュの家にあった薬は、タージュが作った秘薬も少なくなかった。それらがすべて焼けてしまった。秘薬のレシピを書いた書物も、数多く焼けてしまった。損害は小さくない。
「セイホウサイの粉薬、ウミヒクイドリの塗り薬……すべて焼けてしまったのですね」
「はい……」
タージュは、特に貴重な秘薬の名前を出す。いずれもタージュが作ったものだ。珍しい材料でつくった秘薬は、ものによっては小国が買える値段で取引されることもある。タージュには欲がなく、いずれも近隣の住民に小さな代償で施していた。ルウルウはそんなことも思い出していた。
タージュがルウルウの隣に歩み寄る。
「特に、ヒヨスリイバラの煮出し薬は……」
「……!?」
その瞬間、ルウルウはタージュから飛び退いた。たき火が揺れる。
タージュがわずかに目を丸くし、ルウルウに手を差し出す。
「どうしました、ルウルウ? なにか……」
「あなた、誰?」
ルウルウはタージュに、おのれの杖を突きつけた。ルウルウの手はわずかに震えている。だがルウルウは明確に敵意をこめて、キッとタージュをにらむ。
「ヒヨスリイバラの煮出し薬は、わたしだけのレシピです! お師匠様は……一度も作ったことがない!!」
ルウルウの鋭い言葉に、タージュは虚を突かれたように立ちすくんだ。事実だ。ヒヨスリイバラを煮込んで作る軟膏は、タージュが失踪してからルウルウが編み出したレシピだ。タージュが「失われて惜しい」と言うはずがない。彼女はそんな薬が家にあったことすら知らないはずなのだから。
つまり、ルウルウの目の前にいるのは、タージュではない。タージュの姿をした、何者かである。ルウルウはギュッと杖を握りしめる。胸の中に怒りが湧いてくる。
「もう一度、聞きます。あなた、誰!?」
ルウルウは鋭く問いかけた。