「ルウルウ、本当に大事なものだけ持て」
ジェイドはルウルウにそう告げた。彼は黒い瞳に危機感をにじませて、扉の外をうかがう。剣帯に差したショートソードに、右手をかける。
「ジェイド、その……なにが起こって?」
「ここを包囲された」
抑えた声で、ジェイドはルウルウとカイルに告げる。
「おそらく魔族だ」
「どうして……!?」
「わからん。だが足音が複数、四つ足や地面を引きずる音もした。人じゃない」
ジェイドはおのれの耳に神経を集中させ、聞き耳を立てる。複数の足音がいっせいにルウルウの家に迫ってきて、距離をすこし取って止まる。相手もこちらの様子をうかがっているらしい。
「チッ、統率がとれてるな……」
「ど、どうするんだ、ジェイド……!?」
「脱出するしかないだろう」
ジェイドはつとめて冷静に、カイルとルウルウに告げる。
「多勢に無勢、というやつだが……夜闇は無勢の方に味方する。逃げるぞ」
「ひぃ~~!! 無理だって! き、きっとナディバを襲った連中だ!」
カイルが情けない声を上げた。ジェイドは口元に人差し指を当て、静かにするように促す。カイルがあわてて口を手で押さえる。
「ええと、ええと……」
ルウルウが家の中を見回す。今までにつくった薬、師匠の所持する本、備蓄した食料――大切なものはたくさんある。心が混乱し、すぐに判断がつかない。
「ルウルウ」
ジェイドが厳しい表情でルウルウを見る。彼のそんな顔を、ルウルウは見たことがなかった。
「本当に、失いたくないものだけ持て。また手に入るものはあきらめろ」
「……うん」
ジェイドが言うなら、そうするしかない。ルウルウは覚悟を決めて、壁にかかった杖を取った。師匠タージュの御守りがついた、杖だ。木の枝にツタが絡んだような杖。タージュの生存を伝えてくれるその杖だけを、ルウルウはぎゅっと握った。
「ルウルウ、たしか水魔法に攻撃呪文はあったよな?」
「う、うん。つららを撒き散らすだけなんだけど……」
「それでいい。俺が扉を開けると同時に、七メルテ先に発動させられるか?」
ジェイドが具体的な距離を持ち出し、できるかどうかを問う。ルウルウは心の中が澄んでくるのがわかった。混乱していた頭の中が、シャンと方向性を得る。
「やる、やってみせる」
杖を強く握り締め、ルウルウは答えた。
ジェイドがうなずき、作戦ともいえない見通しを言う。
「魔法が発動し、相手が混乱したら一気に突破する。しんがりは俺がする。カイル、ルウルウ、君たちはまっすぐ走れ」
「まっすぐ走るのはいいけど……どこまで逃げりゃいいんだ?」
カイルが不安げに言う。ルウルウが答える。
「まっすぐ走ったら、山に入る。木がもっと深くなって、隠れる場所はあると思う」
「そこで朝までしのげれば……なんとかなるな。魔族の連中は朝日が一番苦手だからな。朝が来れば撤退するだろう」
「ええ」
「よし、決まったな」
ジェイドが扉の取っ手に手をかける。いつでも開けられる体勢だ。
ルウルウは暖炉の火を消す。あたりが暗くなる。
「ルウルウ、詠唱を始めろ」
「うん」
ルウルウは杖を縦に持ち、目を閉じた。呪文を詠唱する。
「水よ、この世をあまねく凍らす氷河となるものよ」
回復魔法のときとは異なる詠唱が始まる。ルウルウの周囲に彼女の魔力が展開し、あたりをほんのり明るくする。詠唱が進むと、空中に水の塊が生じる。水の塊はルウルウの前でクルクルと回転し始める。
「我が願いに応え、氷条たる奇跡を示せ!」
詠唱が完了する直前に、ジェイドが扉を開け放った。ルウルウはカッと目を見開いた。水の塊に向かって叫ぶ。
「行って!」
水の塊が、家を飛び出す。七メルテ先の空中へと飛んでいく。水の塊は飛びながら、一瞬でトゲの塊に変化する。トゲは四方八方へとすさまじい勢いで飛散する。
「ギャアッ!!」
「ギイイイッ!?」
夜闇の中で複数の叫び声がこだました。擦過音を含む声は、人間のそれではない。やはり複数の魔族が潜んでいたらしい。魔族たちはつららに貫かれ、統率に混乱をきたす。
「走れ!!」
ジェイドの声とともに、ルウルウとカイルは家から飛び出した。まっすぐ前へと走り出す。得体の知れない者たちが、ルウルウの攻撃を受けてうめいている。その中を走り抜ける。
「カイル、こっち!」
「ひえええ!」
ルウルウは暗闇の中を、必死で走る。森の道なき道は濡れており、足をもつれさせる。カイルがバランスを崩すと、ルウルウはその手を取って走った。
「ルウルウ!」
「ジェイド、大丈夫!?」
「ああ!」
後方からジェイドの声がする。
三人はとにかく走った。比較的平坦だった地面が、途中からのぼりに変わる。山の中へと入っていく。しばらく走ると、後方から追いかけてくる気配が途切れた。