男が、家の中に転がり込んできた。先ほどまで、家の扉をけたたましく叩いていた男だ。男の体は濡れており、靴は泥にまみれている。濡れた男は、勢いよく床に倒れた。
濡れた男は、少年を背負っていた。少年の背中からは、矢が二本、突き出ている。
「あわっ、あわわわ……!」
ルウルウは尻もちをついて、狼狽した。緊急事態だ。濡れた男にも、矢で撃たれた少年にも、ルウルウに窮状を告げる空気がまとわりついている。
濡れた男が、少年を背負ったまま、起き上がった。ルウルウに訴える。
「すまん、ルウルウ。こいつを助けてやってくれ」
「ジェイド……!? どうしたの、一体!?」
「話はあとだ。頼む!」
濡れた男――ジェイドが望む。彼の長い黒髪から、ポタポタと水が落ちる。髪と同じ色の瞳で、ジェイドはルウルウを見つめる。鋭く射抜くような、それでいてすがるような視線だった。
ジェイドの真剣な目を見返し、ルウルウは浮かんだ疑問を飲み込む。聞きたいことは山ほどある。だが今ではないと感じた。頭の中でなにかがカチリとハマる。混乱した心がクリアに澄んでいく。
「……わかった、火のそばへ!」
ルウルウはそう言うと、暖炉の前の床にシーツを広げた。生成り色の布が、茶色の床板を覆い隠す。暖炉にはすでに火が入っており、わずかに揺れる。
広がったシーツの上に、ジェイドは背負ってきた少年を寝かせた。矢を刺激しないよう、うつぶせに少年を横たえる。少年は苦しげにうめいた。
「よかった、まだ息があるぞ」
「ジェイド、ちょっと待ってて」
少年のうめきに、ジェイドがわずかに安堵する。どうやら少年の生死を確かめることもできないまま、ルウルウの家に走ってきたらしい。
そう、ここはルウルウの家だ。森深くにある小さな平屋。部屋は合計でふたつしかない。台所と寝室がひとつずつだけだ。扉はひとつ、窓はいくつかあるがいずれも閉じている。二時間ほど前まで、雨が降っていたせいだ。外はすでに暗くなり始めており、平屋の中にまで夜が迫ってきている。
台所には、暖炉がひとつ、大きなテーブルがひとつ。そして棚がいくつもある。棚の中には、大量の白い小壺。棚のない壁には、鍋つかみや薬草の束がかかっている。
ルウルウは壁から鍋つかみを取って、暖炉へ向かった。暖炉の火には、大きな鍋がかけられている。鍋の中では、緑色の液体がクツクツと煮立っている。ルウルウはその鍋を火から下ろす。鍋の熱気が、鍋つかみごしでもわかるようだ。
「あちち……」
「大丈夫か、ルウルウ? 大事な薬だろう?」
「平気。もう十分煮込めてる」
ルウルウは鍋をテーブルに置いた。蓋をしてホコリが入らないようにする。
テーブルそばの棚から、ルウルウは複数の小壺を取り出した。さらに清潔な布巾を複数枚取って、暖炉前のジェイドと少年のもとへ向かう。
「矢を抜いて、傷の治療をします」
「わかった」
真剣な表情で、ルウルウはジェイドに言った。ジェイドはうなずく。ルウルウは布巾を一枚、小さく畳んで少年の口に挟む。少年の細長い
ジェイドがルウルウに尋ねる。
「大丈夫そうか?」
「ええ、矢を抜くの手伝って」
「わかった。……行くぞ!」
ジェイドはルウルウとともに、少年を押さえ込む。ジェイドが、少年の背中に突き立った矢をつかむ。彼は腕に力をこめて、矢を引き抜く。肉がえぐれる音がして、矢が抜ける。
「んんーーーー!!」
気を失っているはずの少年が、うめき声を上げて、布巾を強く噛んだ。もし布巾を噛ませていなかったら、舌を噛んでいたかもしれない。ルウルウの判断は的確だった。
少年の背中が大きく跳ね上がろうとするのを、ルウルウはジェイドとともに押さえつける。少年の背に突き立った矢を、もう一本、ジェイドが引き抜く。少年の傷口から、血がほとばしる。
「服を脱がせて!」
「わかった!」
ルウルウの指示で、ジェイドは少年の上着を剥ぎ取るように脱がせた。少年の服は雨のせいで濡れていて、ジェイドの手際がなければ脱がせるのも難しかっただろう。服を剥ぐように脱がせると、彼の肌は真っ白だった。その肌に、矢傷から出た血が容赦なく流れ出す。
ルウルウは少年の矢傷を布巾で押さえた。生成り色の布巾に、真っ赤な血がにじむ。それに構わず、ルウルウは持ってきた小壺のひとつから、蓋を取り払う。小壺の中には、透明な軟膏が入っている。
「まずは消毒……」
ルウルウは布巾で血を吸い取る。布巾を外し、透明な軟膏を素早く少年の矢傷にすり込んだ。少年の背がビクビクと痙攣する。おそらく軟膏が、傷の痛みを刺激しているのだろう。
ジェイドが引き抜いた矢を見据える。血に濡れた黒い矢じりは、人間がよく使うものだ。
「毒矢ではないと思うが」
「ううん。傷は不潔になりがち。それは毒があるのと同じなの」
ルウルウはジェイドの疑問に答えながら、別の小壺の蓋を開ける。中には、黄色の液体が入っている。透明な軟膏よりも、はるかにサラリとした液体だ。
「ルウルウ、それはなんだ?」
「普通の回復薬だけど……わたしの魔法の触媒にもなる」
ルウルウは回復薬を少年の傷に垂らす。少年の背中がまたビクリと震える。
「大丈夫、すぐ治る。もうちょっと我慢して」
少年に語りかけながら、ルウルウは壁から杖を取った。木の枝に蔓を絡ませたような杖で、ルウルウの背丈ほどの長さがある。杖のヘッドには、鷹の羽根と大粒の真珠でできた御守りがついていた。
ルウルウは少年のそばに立ち、杖の先端を矢傷に当てる。ジェイドに視線を送ると、ジェイドはうなずいて少年から離れた。
ルウルウは心を落ち着け、大きく息を吸う。
「水よ、この世をあまねく濡らす慈雨となるものよ」
ルウルウは詠唱を開始する。彼女の得意な、回復魔法の詠唱だ。ルウルウはなにかに語りかけるように、呪文を唱える。呪文が進むごとに、ルウルウの中で魔力が編み上げられる。
「我が願いに応え、慈悲なる奇跡を示せ!」
パァッと、家の中を明るい光が満たす。杖という方向性を伝い、ルウルウの魔力が少年の傷に注がれる。傷にかけられた回復薬が魔法に反応し、少年の矢傷を急速にふさいでいく。
光が収まると、少年の矢傷が治っていた。少年の顔から苦痛が消えて、吐息が安らかになる。ルウルウはその様子を見て、ホッと安堵した。
「ふぅー……!」
「……できた、のか」
「ええ。傷はもう心配ない。この子は、しばらく寝かせてあげて」
ルウルウはそう言って、また表情を引き締めた。