タクシーの中で、祐介はドアにもたれながら、窓の外をぼんやりと見つめていた。その目は、流れる景色を映しているようでいて、実際にはもっと遠い何かを見ているようだった。
もしかすると、春木賢一朗としての時間を思い返しているのかもしれない──それこそ、走馬灯のように。
そう思うと、私は声をかけることができなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、ふいに祐介から話しかけてきた。
「姉ちゃん、頼みがあるんだ」
横を向くと、祐介のまっすぐな視線とぶつかった。その瞳には悲しみが滲んでいたが、それ以上に揺るぎない決意が宿っていた。
「今回の裏取引の件、姉ちゃんは何も知らなかったことにしておいてほしい。譲原さんと話すまで、本当に知らなかったんだから、それは嘘じゃないだろ」
「でも、それは祐介も同じじゃない」
彼は小さく笑い、わずかに首を振った。
「俺はねこつぐらの一人だから、責任はあるよ。それに、蓮さんはもちろんだけど、姉ちゃんは広瀬さんとも信頼し合ってるんだなって、ずっと思ってた。……姉ちゃんが築いてきた関係を、俺、壊したくないんだ」
その言葉に、祐介が私を守ろうとしてくれているのがわかって、胸が締め付けられた。
このまま祐介にすべてを背負わせるなんてできない。けれど……私に、何ができるのだろう。
小さく息をついてうなだれると、首元でペンダントが微かに揺れた。その感触に意識を向けた瞬間、蓮さんの穏やかな声が聞こえた気がした。
──どんな事情があるにせよ、君と祐介くんが大切な人を裏切るはずがないって、僕はちゃんとわかっている──
蓮さん……。
言葉が胸に沁みて、私は思わずペンダントに触れる。すると、それに気づいた祐介が、横から手を伸ばしてきた。
「姉ちゃん、ちょっとごめん。見せて」
祐介の指が、ペンダントトップをそっと持ち上げる。
「やっぱり。これ、『H. ヴェスペル』の久世遥のデザインだ」
「ヴェス……なんて?」
祐介は、「姉ちゃん、俺以上にジュエリーに疎いよな」と言って苦笑する。この重い空気を、少しでも和らげようとしているのが伝わってきた。
「もしかして、蓮さんにもらったの?」
私は少し照れながら「うん」と頷く。
「っていうか、なんで祐介がジュエリーのデザイナーに詳しいのよ」
「前の会社にいたとき、アメリカ本社でプレミアムジュエリーのチャリティー・オークションが開かれてさ。そのとき、社会貢献の一環ってことで、久世遥が一点物のジュエリーを提供してくれたんだ」
祐介は、何でもないように言った。
「俺は日本から手伝いに駆り出されただけだから、直接話したりはしてないんだけど、とにかく綺麗な人だったよ」
「……そんなに有名な人のデザインだったの?」
驚く私に、祐介は静かに頷いた。
「こだわりの人だからな。一点物しか作らないし、量産を嫌って、年間でもほんの数点しか世に出さない」
「じゃあ、このペンダントも……?」
「いいものだから、大切にしなよ。このブランドのコンセプトも……」
言いかけたところで、祐介はふと口をつぐむ。そして少し笑って「ま、それは蓮さんに聞いて」と言い、再び窓の外に目を向けた。
エルネスト・エンタープライズに到着すると、祐介は迷うことなく受付へと向かった。
「祐介くん、今日はなんだかパリッとして、エリートみたいじゃん!」
冗談めかした男性社員たちの声に、祐介は「惚れないでくださいよ!」と軽口を返す。その何気ないやりとりを見ながら、私は胸が締めつけられるような気がした。
こんなにも馴染んで、やっと春木作品を託せると決めた会社なのに。祐介は──そのすべてを失うことになるのか。
それでも、彼は前に進もうとしている。責任を果たすために、大切に築いたものを手放してまで。
それがどれほどの覚悟なのか、私には痛いほどわかるから──せめて今日は、祐介を一人にさせたくなかった。
あらかじめ連絡を入れていたので、私たちはすぐに会議室へ通された。ドアの前で、私と祐介は視線を交わし、小さく頷き合う。祐介が決意を固めたようにノックし、返事を確認してからドアを開けた。
窓辺で話していた蓮さんと知里さん、そして光沢スーツの松本くんが、一斉にこちらを振り返った。
私たちを見た瞬間、知里さんの表情が強張るのがわかった。私はまっすぐに知里さんを見つめる。けれど、彼女はわずかに眉をひそめると、すぐに視線を逸らした。──怒りとも悲しみともつかない、けれど、確かに私を拒絶するような表情で。
その一瞬で、彼女の中で私への信頼が失われてしまったのだと感じた。胸に鈍い痛みが広がり、私は思わず俯く。
祐介は三人の前へと進み、背筋を伸ばした。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
そして一拍の間を置いてから、ゆっくりと深く頭を下げた。
「まずは、私の行動によってご迷惑をおかけしてしまったことを……お詫び申し上げます」
低く落ち着いた声には、一切の乱れがなかった。さっきまでの悲しみも動揺も、見事に隠されている。そして顔を上げた祐介の背中には……静かな覚悟が滲んでいた。
普段の
沈黙が続いたあと、知里さんが口を開いた。いつもの自信に満ちた強気な彼女とは違い、その声はわずかに震えている。
「……こんなこと、考えたくもなかったけど。祐介くん、あなたの口から聞かせて」
祐介は「はい」と短く答え、背筋を伸ばしたまま、静かに知里さんへと体を向けた。
「あなたは、春木賢一朗と話をつけて、彼の小説をダークレイス社に渡したの?」
「……結果的に、そうなってしまいました。申し訳ありません」
もう一度、静かに、深く頭を下げる。
知里さんの目に、今度は怒りではなく、深い悲しみが浮かんだ。
「……祐介くん、信じたくないからもう一度聞くわ。あなたが、オーディション通過を条件に、春木賢一朗を丸め込んで、彼の小説をダークレイス社に渡した。……本当に、そうなの?」
「……間違いありません」
「実は、譲原さんから連絡をもらっていたの。映像化について、春木先生が、うちとの契約を前向きに検討したいと話していると。だけど、数日後にまた連絡が来て、その話は一旦保留にされた。……それは、ダークレイスの映像化が決まったからなの?」
「申し訳、ありません……その通りです」
低く落ち着いた声。けれど、その奥に痛みが滲んでいるのが、私にははっきりとわかった。
知里さんは深いため息をつくと、今度はゆっくりと視線を私へ向けた。
「……祐介くんと一緒に、あなたも須賀さんに会ってたわよね? 薫、あなたも──知っていたの?」
その瞬間、祐介が頭を上げた。
「姉は何も知りません。すべて……私と、パートナーである小林伊吹の二人でやったことです」
祐介の声が少しだけ強張り、焦っているのが伝わってきた。
ああ、祐介は、私を守ろうとしてくれている──。
私は思わず両手を握りしめた。──不出来な姉かもしれない。でも、私が隠していたことまで祐介に責任を負わせるなんて……そんなことができるわけなかった。
「知里さん」
声を上げた瞬間、祐介が驚いたように振り返る。部屋の空気が張り詰め、全員の視線が私へと集まった。
一瞬、言葉が詰まりそうになる。でも、ここで知らないふりをして知里さんとの関係を修復したとしても、鉛のような罪悪感は、私の心にずっと残るだろう。
そんなものを抱えたまま、知里さんや蓮さんと一緒にいるなんて……私には、とてもできない。
息を整え、勇気を出して前を向いた。
「私は……全部を知っていたわけじゃありません。でも、何も知らなかったとも言えません。私にも、黙っていた責任があります」
私の言葉に、祐介の表情がわずかに緩む。小さい頃からいつも一緒だった彼なら、この気持ちをきっとわかってくれるはずだ。
けれどその言葉は、知里さんの疑念を確信へと変えてしまったようだった。
彼女は何も言わなかったけれど、会議室の空気はさらに重くなった。私は唇を噛みしめる。何か言わなければと思ったけれど……どう言葉を続ければいいのか、わからなかった。
そのとき──ふと、視界の端で蓮さんが動くのが見えた。
視線を向けると、腕を組んで窓枠に寄りかかっていた彼が、ゆっくりと姿勢を正したところだった。
「祐介くん」
緊張に満ちた空間に、落ち着いた声が響く。見ると蓮さんは、どこか楽しげな笑顔を浮かべていた。
「君を見ていると、お姉さんに本当によく似ているなと思うよ」
私に……?
意味がわからず、私は祐介と顔を見合わせる。蓮さんの言葉の意図を測りかねるうちに、彼がゆっくりと歩み寄ってきた。
「君のお姉さんも、一度だけ、僕に嘘をついたことがある」
思いがけない言葉に、私は蓮さんを見つめた。
「今の君みたいに、『この嘘だけはどうしてもつき通すんだ』と覚悟を決めた、怖いくらい真剣な顔で僕を見て──『田舎の生活』を書いたのは自分じゃないと言ったんだ。自分の脚本を盗んだ同僚を庇うためにね」
祐介が驚いたように目を見張る。
そうだ、今の蓮さんの笑みは、あのときと同じだ。──マンサニージャの会議室で、私の嘘を見抜きながら浮かべた、あの好戦的で……優しい笑顔と。
蓮さんの表情が、ふいに引き締まる。自信に満ちた強い視線が、祐介をまっすぐ捉えた。
「本題に入りましょう。春木賢一朗の原稿と引き換えに、ダークレイス社に取引を持ちかけたのは、小林伊吹くん──彼一人の判断によるものですね」
会議室の空気が凍りついたように感じられた。知里さんが、驚いた表情で蓮さんを見る。彼は構わずに言葉を続けた。
「
祐介は息を呑み、言葉を失ったように蓮さんを見つめる。
蓮さんは、形のいい唇の端をほんのわずかに上げて、余裕の笑みを浮かべながら言った。
「違いますか? ──春木先生」