目次
ブックマーク
応援する
7
コメント
シェア
通報

第86話

 ──作家を、辞める?


 驚いて祐介を見ると、彼は感情を押し殺したような小さな笑みを浮かべた。


「安心してよ。俺、こう見えて優秀だからさ。前にいた会社からも、戻ってこいって言われてるんだ。……今さらハイブランドのスーツ着て、あの小洒落たオフィスに通うのは、もはやショートコントみたいな気分だけどな」


 わざと軽い口調で言っているのがわかったが、その声には張りがない。自分の冗談が、少しも楽しくなさそうだった。


「本当に、それでいいの? 小説はあんたの生きてる軌跡みたいなものだって──」


「もういいんだよ!」


 突然、祐介の声が響いて、私は息を呑んだ。──彼が怒鳴るのを聞いたのは、小学生の頃、お年玉を賭けた人生ゲームで私に負けたとき以来だった。


 彼はすぐに、我に返ったように声のトーンを落とした。


「……ごめん。姉ちゃんが心配してくれてるのはありがたい。でも、伊吹に全部の責任を押し付けるわけにはいかないんだ」


 短く息を吐き、祐介はかすれた声で続けた。


「不正が行われたんだ。俺も、ちゃんと責任を取らないと──たとえ、作家を辞めることになっても」


 一瞬、息が詰まった。祐介にとって小説を書くことは、もう単なる仕事ではなくなっているというのに……。


 言葉に詰まりながらも、私はなんとか声を絞り出す。


「でもさ、祐介。あんたは何も悪くないじゃない」


 私の言葉に、祐介は手に持ったカップを強く握りしめた。


「派遣社員としてエルネストEPに入ったのは、本当にあんたの小説を大切に扱ってくれる会社なのか、確かめたかったからだよね。それで映像化のオファーを受け入れようとした矢先に、祐介の知らないところで、伊吹くんが取引をしてしまった……。そのまま正直に話したらどう?」


 言いながら、自分の言葉が説得力を持たないことを痛感していた。もし私が祐介の立場だったとしても──伊吹くん一人に責任を押し付けることなんて、到底できないだろう。


 祐介はカップを手の中で弄びながら、小さな声で呟いた。


「──姉ちゃん、俺が小学一年のとき、シンゴと喧嘩して帰ってきたの、覚えてる?」


「そんなこともあったね」


 私は答えた。クラスのムードメーカー的な存在だった祐介が、誰かと喧嘩するなんて滅多になかったから、よく覚えている。


「あのときシンゴに『授業中、お前だけウケやがって』って絡まれたんだよ。普段は適当にかわせるのに、その日のシンゴは虫の居どころが悪かったみたいで、俺の肩を押してきた」


 やっと私の方を見て、彼は言葉を続ける。


「そしたら伊吹が、俺とシンゴの間に立ちはだかって、『やめろよ』って言ったんだよ。あの気弱な伊吹が、震えながらだよ? で、シンゴが睨んだだけで伊吹は漏らして泣き出してさ、それをからかったシンゴと俺で喧嘩になったんだ。まあ、六歳児同士の喧嘩だから、他愛もないもんだったけどな」


 すっかり冷めたミルクティーを飲み干して、祐介は少し笑った。


「でも、俺、六歳児ながらに思ったんだ。これから先、伊吹が困ってるときは、俺が駆けつけて助けてやろうって。……それなのに、知らないうちに伊吹のことを追い詰めてたなんて、笑えるよな」


 かける言葉を探したが、何も見つからなかった。


 祐介と伊吹くんが積み重ねてきた時間は、どこまでいっても、彼らだけのものなのだ。結局、私にできることは──祐介の決断を、受け入れることだけなのかもしれない。


 胸の奥が締めつけられるような切なさに襲われ、思わず視線を彷徨わせる。ふと、蓮さんが作った肉じゃがの鍋が目に入った。


「祐介、お腹空いてない? 昨日、蓮さんが肉じゃがを作ってくれたんだけど、これがすごいの」


 おばあちゃんと全く同じ味──そう言おうとした瞬間、祐介が言葉を遮った。


「大丈夫。食欲、あまりなくてさ」


 そのまま、彼はゆっくりとソファから立ち上がる。


「ミルクティー、ご馳走さん」


 短くそう言い残し、主寝室へと向かった。しばらくして、ドアが開く。


 そこに立っていたのは──まるで別人のような祐介だった。


 深みのあるネイビーのスーツが、彼の細身の体に完璧に馴染む。淡いブルーのオックスフォードシャツは品のある落ち着きを醸し出し、シルバーグレーのネクタイが洗練されたアクセントを添えていた。


 仕立ての良さが際立つその装いは、まるでビジネスパーソン向けのファッション誌からそのまま抜け出してきたかのような隙のない佇まいで──二年前、外資系の有名企業で働いていたころの祐介そのものだった。


 カフリンクスを留めながら、彼は言った。


「なんちゃって意識高い系だったころの戦闘服。着るだけで身が引き締まるな、これ」


 それからスマホを操作し、頷いてポケットにしまった。


「タクシー手配完了。じゃ、俺、ちょっと会社に行ってくる」


 私は息を呑んだ。


「……蓮さんのところへ?」


 祐介は、吹っ切れたような笑顔を私に向ける。


「蓮さんと広瀬さんに、ちゃんと謝ってくる。俺はスパイじゃないけど、春木の作品と引き換えにオーディションに合格させてもらったのは事実だって」


「あんたが春木だってことは……言うの?」


 祐介は首を横に振る。


「もしそれを言ったら、春木が筆を折ったと知ったとき、広瀬さん、自分を責めるだろ? 須賀さんを春木だと信じてるなら、それでいい。須賀さん自身も、そう思わせるような言い方をしてたみたいだし」


 そう言って、祐介は軽く肩をすくめながら、少しだけ笑った。


「須賀さん、もう少ししたら広瀬さんに本当のことを話すって言ってたから、それまでの間、利用させてもらってもいいよな? その頃には、俺はみんなの前から姿を消して、きっとうやむやになると思うから」


 それから祐介は、まっすぐ私の方を向いて、背筋を伸ばした。


「姉ちゃんには……本当に迷惑をかけた。ごめん」


 言葉とともに、深く頭を下げる。その姿に、胸が締めつけられた。


「祐介……」


 子どもの頃、彼はいつも私の後ろをついて回っていた。まるで子鴨のように、どこまでも。


 何かあるたび、私を頼りにしていた弟が、今はこうして責任を負おうとしている。


 誇らしさと切なさがないまぜになって、胸が少し痛んだ。私は静かに息を吸い、彼の判断を尊重しようと心を決める。


「……今回のことで、蓮さんと姉ちゃんが、拗れたりしないといいんだけど」


 祐介の言葉に、私は微笑んだ。


「私たちのことは大丈夫。心配しないで」


 祐介は安心したように頷いて、窓の外に視線を向ける。ちょうどタクシーが到着したようだった


「シェイクスピアが言ってた。『世界は舞台であり、人は皆、役者にすぎない』って。──さて、俺もひと芝居うって、作家としての最後の幕を下ろしてくるよ」


 そう言いながら、彼はスーツに合わせたダークキャメルのステンカラーコートを羽織り、ひとつ息をついた。そして、ためらいなく玄関へと向かう。


 私も、その背中を追いかけた。


「じゃ、姉ちゃん。また後で」


 祐介はそう言い、タクシーへ向かおうと歩き出した。


 その背中を見送るつもりだったのに、ふと、その横顔にわずかな寂しさが滲んでいるのが見えて……気づけば、私は口を開いていた。


「祐介」


 彼が足を止め、ゆっくりと振り返る。


「私は──ずっと、春木賢一朗の一番のファンなの」


 その言葉に、彼の目がわずかに見開かれる。


「春木先生の責任の取り方を見届けたい。──私も一緒に行きます」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?