蓮さんのテラスハウスの玄関を開けた瞬間、
──祐介が料理している?
けれど、そんなはずはない。祐介は伊吹くんと話し合うため、まだ彼の部屋にいるはずだ。
だとすると、この香りは──。
「薫、おかえり」
リビングに入ると、カーキ色のエプロンをつけた蓮さんが、キッチンから顔を覗かせた。
「ただいま。……蓮さん、本当に、早く帰ってきてくれたんだね」
「もちろん。薫と約束したからね」
その言葉に、少しだけ胸が詰まる。
本当なら、私には蓮さんに合わせる顔なんてないはずだった。祐介が抱える秘密を知っていながら、蓮さんや知里さんに話さずにいる。その罪悪感が、心に重くのしかかっているのだから。
でも……それでも私は、ここに帰ってきてしまった。
──今日も一緒に寝てくれる?
今朝、蓮さんがそう尋ねたときの表情が、ずっと心に残っていた。
明け方、まどろみの中で聞こえた「愛してる」という言葉。それが本当に蓮さんの声だったのか、それとも私の都合のいい妄想だったのか──今となってはわからない。たぶん、後者だろう。
だけど、愛しているとまではいかなくても、蓮さんはきっと、私のことを大切に思ってくれている。そして、私は──それを信じたいと思っていた。
「祐介くんは?」
「伊吹くんと話しているみたいで、ちょっと遅くなるかも」
それは嘘ではなかった。私は嘘をつくのが苦手だから、祐介が伊吹くんの部屋に泊まるだろうと予想しつつ、「帰ってきたら、ちゃんと鍵を閉めるんだよ?」と伝えておいたのだ。
これで、私の中で祐介は「帰ってくるかもしれない」枠の人になった。祐介が帰ってくる可能性を伝えておけば、蓮さんに余計な期待をさせることもない……はずだ。
蓮さんは「そう」と短く返し、端正な顔に微笑みを浮かべる。
「今日は久しぶりに僕が肉じゃがを作ったんだ。味見してくれる?」
「もちろん!」
蓮さんは豆皿に少しだけ具材と汁を盛り、私に差し出した。一口食べた瞬間、懐かしい味が舌の上に広がり、ふわりと記憶が蘇る。まるで実家のダイニングルームに戻ったような感覚だった。
「──すごい、おばあちゃんの味とまったく同じだ!」
驚いて蓮さんを見つめる。すぐに心当たりに行きついた。
「わかった、祐介のレシピだ。あの、グラム単位で細かく書いてあるやつを教えてもらったんでしょ?」
蓮さんは楽しげに、小さく頷く。
「まあ、そんなところかな」
「今ね、この一口で、実家の思い出が一気に蘇ってきたの。祐介が言ってた『プルーストのマドレーヌ』って、こういうことなんだね」
「なるほど……そうなんだね」
そう言いながら、蓮さんは何かを理解したように、穏やかに微笑んだ。
夕食を終えると、蓮さんが私の食器まで片付けようとした。
「食器洗いくらいはさせて」と言ったけれど、「今日は薫の仕事納めだから」と、やんわりかわされてしまった。
仕方なく、ソファに腰を下ろす。それから、ふとあることを思い出し、私は主寝室へ向かった。
祐介がくれたプラネタリウム投影機と、クラフトのギフトバッグを手に取って、そのままリビングへ戻る。コーヒーテーブルの中央に投影機を置いて、説明書に目を通した。
蓮さんが、二つのマグカップを手にキッチンから戻ってくる。「ありがとう」とカップを受け取ると、ほのかに木の温もりを思わせる香りが立ち上った。ルイボスティーだ。
「それは?」
蓮さんが尋ねる。私は言葉で答える代わりに、部屋の照明を落とし、スイッチを入れた。
次の瞬間、無数の光が弾けるように広がり、瞬く間に星々が部屋を満たしていく。
「……すごい」
蓮さんが息を呑む。星の淡い輝きが、そんな彼の横顔を優しく照らした。
「祐介から、私たちへのクリスマスプレゼント」
彼はしばらく何も言わず、ただ星の広がる光景を見つめていた。その瞳に、小さな星の煌めきが映り込んでいるのが見えて、一瞬、なんてきれいな人なんだろうと見惚れてしまう。
やがて蓮さんは静かに私を見て、小さく微笑んだ。
「……祐介くんらしいね」
その言葉に、私は少し驚いて彼を見る。
「祐介らしいかな? どちらかと言えば、『意外だね』って言われるかと思ったけど」
蓮さんはふっと視線を上げて、天井で瞬く星を眺める。
「いや、祐介くんはかなりのロマンチストだと思うよ」
家族の私はもちろん知っていたけれど……蓮さんが、そこまで祐介の性格を見抜いているのが意外だった。
きっと、祐介と蓮さんは、いつか自然に元の関係に戻れる。そんな気がして、私はそっと目を伏せ、微笑んだ。
そして、隣に隠していたギフトバッグから細長い箱を取り出し、蓮さんに差し出す。
「これは、私からです」
チャコールグレーのラッピングペーパーにシルバーのリボンを掛けた箱は、プラネタリウムの星の光を受けて、まるで夜空の欠片のように見えた。
「ありがとう……開けていい?」
私が頷くと、蓮さんは丁寧にリボンを解いた。
中から現れたのは、深いブルーのシルク生地に、スモーキーグレーの柔らかな曲線が織り込まれたネクタイ。それを見た瞬間、あの日の記憶が蘇った。
蓮さんの心は自分にはない──そう思い込みながらも、それでも彼のことを考えずにはいられなかった、自分の誕生日。だけど、デパートでこのネクタイを見つけた瞬間、彼にきっと似合うと確信し、思わず手に取ってしまったのだ。
だけど、そのときは──まさか本当に彼に渡せる日が来るなんて、思いもしなかった。
あの日の切なさと、身を焦がすような愛おしさが蘇る。唇をそっと噛み、視線を上げると──まっすぐに私を見つめる蓮さんと目が合った。
「ありがとう……大切にする」
その言葉に、私は照れて頷く。「ネクタイを大切にする」という意味なのに、まるで私自身のことを言われたようで──そんなふうに思ってしまう自分が、少し恥ずかしかった。
「僕からも、あるんだ」
彼は手のひらサイズの箱を、そっと私の手に乗せた。驚いて顔を上げると、蓮さんは優しく微笑み、「開けてみて」と促した。
リボンとラッピングペーパーを外す。現れたのは、小粒のラピスラズリと、さらに小さなダイヤモンドがあしらわれたネックレスだった。
どこまでも深い宇宙を切り取ったかのような石と、そこに寄り添う一粒の星のような煌めきに、私は思わず息を呑む。
「蓮さん、これ……」
「付けてあげるよ。後ろ向いて」
言われるままに背を向け、髪を手でまとめる。
蓮さんの指がそっと首元に触れた瞬間、心臓が跳ねるように高鳴った。肌に伝わる彼の体温が、静かに私の中へ浸透していく。
「ありがとう」
髪を下ろそうとしたそのとき……不意に、後ろから優しく抱きしめられた。次の瞬間、蓮さんの熱を帯びた唇が、そっと首に触れる。甘い電流が走ったかのように、私は思わず目を細めた。
天井には、まだ無数の星が瞬いている。プラネタリウムの光が私たちを包み込み、現実の境界がぼやけていくような気がした。
「ちょっとだけ……抱きしめさせて」
その囁きは、夜空を満たす星の光よりも温かく、私の心を優しく溶かしていく。
私はそっと、まぶたを閉じた。